Billboard JAPAN


FMfanのアーカイヴであの時代にタイムスリップ!タイムマシーン特集

ポップスからクラシックまで幅広いジャンルを網羅した音楽情報とオーディオ関連の記事で人気を誇ったFM情報誌「FM fan」のアーカイヴを一挙公開。伝説のライヴリポートや秘蔵インタビューなど、ここでしか見ることのできない貴重なコンテンツ満載!

TOPICS - 2001※当記事の著作権は全て株式会社共同通信社に帰属します。

スヌープ・ドッグ

古巣からの妨害から発売前に新曲がインターネットで流出 
No.3

スヌープ・ドッグ
Photo: Image Direct

 スヌープ・ドッグの新作『最後の晩餐』が古巣のレーベル、デス・ロウ・ロコーズからの妨害を受けている。というのは、新作の全米での発売は12月19日だったが、その2週間前からデス・ロウのオフィシャル・ホームページで、スヌープの新曲として、19曲もが視聴できるようになっているからだ。スヌープは、前作発表後の98年にデス・ロウから、ラッパーのマスターPが主宰するレーベル、ノー・リミット・レコーズに移籍している。この移籍により、一時はヒップホップ帝国として君臨したデス・ロウは、ほとんど壊滅状態に陥ってしまった。それに対する恨みとリベンジから起こした行動。これに対して、デス・ロウの創設者のひとりで、今では同じく他のレコード会社に移籍しているドクター・ドレがウェブサイトでの公開を完璧な営業妨害だと非難している。しかし、それにもめげず、今後もデス・ロウはスヌープの音楽活動を妨害し続けることをほのめかしている。

(共同)

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クレイグ・デイヴィッド

UKでのデビューから1年 全米で大ブレイクの兆し
No.18

クレイグ・デイヴィッド
Photo: Getty Images

 UK出身のシンガー、クレイグ・デイヴィッド。19歳のデビューと同時に、シングル2枚をいきなり全英1位にさせたことで一躍注目の新人となったが、今夏全米でかなり話題だ。まず、現在LAやNYなど各地でギグを行っているが、これが大評判。約75分のステージで、アンコールにはアカペラも披露し、スタンディング・オベーションとなっている。また、LAでの公演にはブリトニー・スピアーズとインシンクのジャスティンが見にきているのが目撃されている。シングル「フィル・ミー・イン」が全米で最高18位にランキングされ、続いてアルバム『ボーン・トゥ・ドゥ・イット』も7月17日にリリースされた。関係者によれば、発売第1週で10万枚のセールスを記録しており、ラジオでのオンエアも好調なことから、今後はさらに伸びることは確実だろうという。さらにジャミロクワイの新作で、ジェイ・ケイとデュエットを。しばらく彼の動向に目が離せない。

(共同)

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ドゥービー・ブラザーズ

アメリカ新国防総省顧問に就任した意外な名前
No.24

ドゥービー・ブラザーズ
Photo: Redferns

 このほどテロ、ミサイル防衛、生物・細菌兵器戦争の専門家としてアメリカ国防総省の顧問に招かれたアーティストがいる。ドゥービー・ブラザーズのギタリスト、スカンクことジェフ・バクスターがその人。ジェフと国防総省顧問とは、なんとも不釣り合いに感じるかもしれないが、実はジェフは防衛に関しては政治家も一目置く専門家だったのだ。もともと兵器関連の知識を独学で学び、防衛専門雑誌の熱心な読者だったジェフは、10年ほど前に、ある雑誌にミサイル防衛に関する論文を発表。それが下院の外交委員会のメンバーにわたり、専門知識と防衛に関する見識が認められ、下院の軍事委員会のミサイル防衛顧問として招かれた。そのうちジェフもミサイル防衛だけではなく、核ミサイルや細菌ミサイル、さらにはテロ対策など、広範囲にわたって研究を続けてきた結果。この緊急時にジェフの能力が必要だということになって、国防総省に招かれたという経緯がある。

 ロックン・ロールと国防とは正反対な感じもするが、ジェフは「ツアー中もほかのメンバーがビールを飲んでゲームをしている間、オレは防衛専門雑誌を読みふけっていたし、少佐や中佐だったころにオレの音楽に接してくれていた人たちが今は大佐になっていたりするから親近感を覚えてくれているのかもしれない。」と語っている。代議士の中には「問題を多面的に分析できるジェフの着眼点はすごい。今日のように防衛も多方面のことを考えなければならない時代にはジェフのような才能が求められる」としており、ロックン・ローラーの顧問就任を歓迎しているという。今後、音楽活動と並行してアメリカの防衛に寄与することになり、多忙を極めることになりそうだが、ジェフはこの「二足のわらじ」に意欲的に取り組んでいるということだ。それにしても日本じゃちょっと考えられない大抜てき。やっぱりアメリカは自由の国なんだね。

(共同)

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ボブ・ディラン

厳重な警備は安全の証拠だが自分が会場に入れなくては…
No.24

 9月11日以降、全米各地で警備が強化されている。特に人が集まるコンサート会場では、通常より厳重となっている。そんな全米で10月9日に、ボブ・ディランはコンサートを行った。ところが、このコンサート、ディラン本人の不注意で、始まらない危機にあった。というのは、コンサート会場に入ろうとした時、ディランはパスを持っていなかった。彼からしたら、自分が出演者なんだから、いらないだろうと思ったのかもしれない。しかし、入口の30代と思われる警備員は、ボブ・ディランの顔を知らなかった。3人の警備員は、ボサボサ頭で、細身のオッサンを単なる不審者と考え、体を張って、楽屋入りを阻止した。それもすべてボブ・ディランを思ってのことだったが、そうされたのが本人だった。とりあえず、ほかのスタッフが来て、本人であるのが確認できたが、ディランは、訴えてやると怒鳴ったが、冷静に考えれば、優秀な警備員を持ったと感謝するべきなのでは。

(共同)

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休刊にあたって

 
No.26

 FMファンは2001年の最終号となる今号26号をもって、1966年6月の創刊以来35年半の歴史に幕を下ろすことになりました。10月13日の新聞発表以降、多くの読者の方から継続のご希望や励ましのお便りをいただきました。あらためて、熱心な読者に支えられてきたことを思い、スタッフ一同感謝の気持ちでいっぱいです。

 創刊から70年代までのFMファンは、時代の波に乗り順調に部数を増やしました。80年代になると、貸しレコード店が登場。CDが発売され、このころから、高価だったレコードが少し安価になったと感じ始めた読者も多いのではないでしょうか。79年にはウォークマンが登場しています。レコードはとりあえずレンタル店で借りて聴いてみる。録音してウォークマンで聴く。本当に欲しいと思ったアルバムのCDを買う……。少しずつ、時代はFMエアチェックから遠ざかりはじめていました。90年代になると相次いでFM他誌が休刊します。90年「週刊FM」休刊。95年「レコパル」休刊。98年「FMステーション」休刊……。
 時代はどんどん変化していきます。人も年老いるように、時代とともに生きた雑誌も年老いるのかもしれません。しかし、時代や周辺環境がどんなに変わっても、演奏される音楽そのもの、そして音楽を聴く人間自体はほとんど変わりません。FMファンは、元気いっぱいの時期を終え、ゆったりとした時期に入ったとき、“変わらないもの”を信じて発行を続けてきました。必要なものだけを選び、それを必要とする人に届け続けてきたからこそ、読者のみなさまに熱心に支えられ、最後まで続けてこられたのだと思います。休刊をお知らせしたこの2カ月間の読者の方々の反応も、「これから(発行日の)水曜日はどうすればいい?」「どうやってエアチェックすればいいんだ?」「30年も続けてきた趣味をあきらめざるをえないのか!」……などなど、私たち編集スタッフにとっては心熱くなる言葉を数多くいただきました。

すでに本誌でもお知らせしましたが、今年に入り、80年代から続く部数の減少に加え、オーディオ・メーカー、ひいては日本経済の低迷による広告収入の減少が重なり、発行を続けていくことが厳しい状況となっておりました。最終的に、部数と広告収入の急激な回復が見込めず、将来性がないということから休刊に至ることとなりました。
 読者の方々には、最後まで長期にわたり支えていただき厚く御礼申し上げます。残念ながら休刊することになりましたが、それでも素晴らしい音楽は存在し続けます。年末に向け、国内は不況の、世界は不穏な空気に包まれておりますが、憎しみや怒りを超え、文化も場所も時代をも超えて人びとを感動させ勇気付けることのできる音楽、そして読者のみなさまと私たち編集スタッフを結びつけてきた音楽に感謝し、休刊の言葉とさせていただきます。
ご購読ありがとうございました。

2001年12月5日 編集長 丸山幸子

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萩原健太が語る ラジオはまだまだ魅力的なメディアだ

聞き手/磯野麻衣子
No.26

AM放送全盛の60年代 音楽の流行はラジオから
――今回、集大成として、FM放送の勃興期、70年代から、ラジオというメディアがどんなふうに音楽シーンのなかで変化してきたのかを振り返ってみたいと思います。まず、萩原さんご自身がリスナーだった当時のお話からうかがえますか。
萩原
 僕自身がラジオを熱心に聴き始めたのは60年代後半、中学生くらいのときですね。当時はまだAMラジオが全盛で。ちょうど「オールナイト・ニッポン」(※1)が始ま って、深夜放送に火がついたころです。そのころはAMでも洋楽番組が多かったんですよ。亀淵昭信さん(※2)や糸居五郎さん(※3)、そういう方たちがスターDJでいらして。いまのDJはパーソナリティって感じですが、当時のDJはもっと個性的でしたね。独自の感性で、音楽を紹介してくれていました。それからベスト10番組が多かったです。ジャンルを問わず、ラジオが日本の音楽の流行を作っていました。
――当時は音楽を聴こうにも、アルバムを1枚買うのも大変な時代でしたから。
萩原
 そう、だってレコードが1枚2000円前後した。すごく高い買い物ですよね。当時、レコードは国内盤だけだったんですよ。輸入盤は置いてあるところが限られているし、1ドル360円の時代でしょう、手が出ない。国内盤がリリースされるのはひと月、ふた月遅れだったけど、独占市場だし、それでも十分対応できてました。おおらかな時代だったよね。
 また、いまみたいに店頭で気軽に試聴ができない。レコード盤の試聴は、けっこう敷居の高い行為でした。だからラジオがありがたかった。レコードを買うときには、まずラジオでチェックして、次に雑誌で最終確認して、そしていよいよレコード屋に行く。3段構えの調査体制が出来上がってた(笑)。友達と「おまえあれ買え、おれはこれ買うから」って、ネットワークを作ってはいましたけど、それにも限界がありますからね。あとはひたすらエアチェック。1日中、耳にイヤホンつっこんでラジオ聴いてましたもん。
――とくに好きだった番組はなんですか。
萩原
 ニッポン放送の「ポップスベスト10」(68年1月~81年3月まで放送)、TBSラジオで福田一郎先生(※4)や、若山弦蔵さん(※5)、八木誠さん(※6)がDJをしていた「パック・イン・ミュージック」(※7)とか。僕のなかで、「ポップスベスト10」の順位はものすごく大事だった。ノートにつけたりしてましたよ。
――それでレコードを買う優先順位を決めたり。
萩原
うん、それもあったけど、単純にそのとき流行っているものをいっぺんにそこで聴けるわけじゃないですか。そのころは、まだまだ英米だけじゃなくて、イタリアのものがヒット・チャートの中に入ったりもしていたので、ジャンルも関係なく音楽をごった煮にして聴けるおもしろさが.ありましたね。

シングル盤からアルバム指向へ  FM放送が本格化した70年代
――その後、69年にNHK-FM(※8)が本放送を始め、翌70年にFM東海がFM東京(※9)としてスタートしたんですよね。
萩原
 そう。70年代に入ってからは、『音楽を聴くならFM』という感じになっていきました。そしてAMのベスト10感覚は、FMによって薄れていった。FMではヒットチャートだけではなく、ある傾向の音楽をもっと深く聴き込んでいったんですね。だから、クラシックやジャズをまとめて聴くときにはNHK-FM、洋楽の新譜とかポップスはFM東京って感じで聴いてた。
FMが本格化していったころから、アメリカのポッス・シーンも3分間の曲を次々にかけるEP全盛から、アルバム中心へと移行していったんで、日本でもちょうどそこらへんがうまくリンクしたんでしょうね。
――エアチェックを欠かさなかったFM番組にはどんなものがありましたか。
萩原
 そうだなあ、NHK-FMで平日にやっていた「音楽アルバム」とか。これはアルバム1枚を全部かけてしまうという、いま考えるとものすごい番組(笑)。本当におおらかな時代だった(笑)。でも片面だけかかるっていう日があるんですよ。で、番組表をチェックしてると、別の日にもう片面かかる。だから計画立てて録音して(笑)。
FM東京だと、ナベサダさんがやってた「渡辺貞夫マイディアライフ」とかを聴いてたな。その前にやっていた「ナベサダとジャズ」っていう番組の流れを汲んでいたんだけど、来日アーティストとかゲストを迎えて、ナベサダさんたちとセッションするんです。これはよく録音してました。それから森直也さんDJの「ミュージック・シャウト」。輸入盤をわりと早い段階でかけてくれていて、本当にありがたかったですね。平日の夜11時からやっていたケン田島さんの「ミュージックスコープ」もよく聴いてました。いやぁ、ほんとによくエアチェックしてました。

ラジオが旬なメディアでなくなった理由
――それがいまでは、輸入盤が手軽に買え、インターネットの普及にも目覚しいものがあります。これからのラジオの可能性は、どこにあるんでしょう。
萩原
 結局、ある時期からパーソナリティものに変わっていっちゃったわけでしょ。よくFMのAM化っていいますけど、とくに民放系がね。アーティストが出てしゃべっている番組では、音楽情報はゲットできないですよね。アーティストのファンの人たちには有益な情報があるんでしょうけれど、音楽ファンにとってはどんどんつまらなくなっていってしまった。ゼネラルな形でいま音楽シーンがどうなっているのかということは、もうFMを聴いていてもわからない。いまのラジオはスポンサーのことを気にしすぎてるんだよね。アーティストの人たちを起用するのも、そのファンを抱え込んで数字を確保したいってことでしょ。いまのラジオのなかでは、音楽はトークのクッション代わりになってる。
――そうですね。そして「FMfan」も今号で、いったん休刊ということになるんですが……。
萩原
 そうだよねえ。ぼくは若いころからFM誌にはものすごくお世話になってきたんですが、ただ、FM誌には功罪あったと思うんですよ。ぼく自身が番組の構成に関わったり、自分で番組(※10)をやるようになって思ったことなんですけど、雑誌の編集作業上、2週間くらい前に番組の内容を決めろっていう連絡がくるんですよ。でも、2週間先の番組で何をやったらいちばんおもしろいか、いま決めろといわれてもなかなか難しい。それに、いまはもっと早い情報が入ってくるから、放送時には旬を過ぎちゃってるんですよ。だから、番組表の良し悪しってありますよ。本来ラジオは、さっき買ってきたものをいまかけるというくらいの小回りがきくメディアだったはず。アメリカなんか生だもんねえ。その場でしゃべって、ガンガン曲かけて、そのときの雰囲気を大事にしないと、情報のソースとしては、あんまり魅力的じゃないでしょう?
――確かにそうしたタイムラグが生む弊害はありますね。
萩原
だから、ラジオを旬なメディアでなくしてしまった悪い側面が、FM誌にはあったと思うんですよ。だから、FM誌が1誌もなくなってしまうというこの状況を悲しむだけじゃなくて、もっと積極的に解釈してね、これはFMがまた早いメディアに戻れるチャンスなんじゃないかと。昔は、FMで初めて新曲を聴くっていうことがありましたからね。インターネットとかとそんなに変わらないスピードを持つことも可能なんですよ。もういっそのこと全部、生にするとかね(笑)。
――最近は、ライブ放送も少なくなってきていますね。
萩原
 でも、それはアーティスト側にも問題あるよなぁ。まあ、FM放送はけっこういい音で届いてしまうので、海賊盤が出回るのも懸念するんだろうけど。あと昔のミュージシャンと比べて力量がなくなってきているから、生演奏を音源として残されることをアーティスト側が異常に嫌がる。やれよ、って思うんですけどね。情けない状況です。
 あともうひとつ、ぼくがAMラジオをワクワクしながら聴いていたころって、なにがかかるかわからないから一生懸命聴く、っていう体制で聴いてたわけです。でも、いまは番組表を見て、「あ、今日はおれの好きなのかからないから聴かない」ってリスナーがどんどん増えてきている。ぼくの番組にも未定なのはおかしい、って抗議のハガキがくるようになったときもありました。だけど、ぼくは前情報に頼りすぎるのは怠惰だと思うんです。そうやってね、リスナーを怠惰にしてまった責任もありますよ。熱量の問題でね、労せずして手に入れたものって、あんまり大切にしない。だから、「FMfan」休刊を受けて、ここで、この状況を前向きに利用したラジオ編成ができるといいと思うんですけどね。

リスナーが厳しくなれば ラジオはおもしろくなる
――ラジオは早いメディアに返り咲き、リスナーももっとエネルギーを使って聴くと。
萩原
 そう、情報源として手軽で早くておもしろいメディアだと思わせる。それか、質の高いライブを流すとか、いまじゃ実現不可能だろうけれどアルバムを丸ごとかけるとか(笑)、ライブラリー的にすごいぞって思わせるか。そのどっちかでしょうね、進むべき方向としては。そんな気はするんですよね。
 でも、そういう状況が本当に実現すると民放は対応しづらくなるとは思うんですけどね、スポンサーとの関係上。じゃあ、NHKが思いっきりやるとかね(笑)。
――しかし手軽さでいえば、インターネットもすごいことになってますよね。
萩原
 環境を整えれば数十秒で音が落ちてくる。好きなときに好きな曲を聴けるっていう状況が作れるんで、ラジオは相当腹くくらないと。作り手にも問題があります。昔はラジオがトレンドを作っていたんですよ。それが民放が数字を気にし始めたころから、ラジオが流行の後追いを始めた。そのとき売れているアーティストがいろんな番組に出まくるわけです。売れている人にお願いして来てもらう、そこからダメになりましたよね。
 ラジオのいろんなディレクターの人たちと仕事してていちばん思ったのは、なんていうんだろう、勉強しないっていうかね。学生のころは時間もあったから音楽を聴いてたんだろうと思うんですけど、いったん職業となったとき、急にそこから忙しくなるんだか、面倒くさくなるのかわからないけど、新しい音楽を自分で探さなくなっちゃってるんです。レコード会社からのプロモーションを待ってるだけみたいなね。持ってこなきゃかけないぞ、といわんばかりでしょ。
――でも、それは音楽雑誌も同じ状態かもしれません……耳が痛いお話です。作り手の熱量からして下がっている。それがいちばん大きな問題なんじゃないでしょうかね。
萩原
 でも、やっぱり聴き手ですよ。リスナーがもっと厳しくなることがいちばんです。それに作り手っていうけれど、本来、作り手はいちばん最初の聴き手のはずでしょう? そこのところが鈍っちゃってるんだよ。でも、これってもう10年くらい前からずっと思ってることだな。
――10年も前から(笑)。
萩原
 ず-っと思ってる(笑)。だけど、ぼくが1日中ラジオを聴いていたころの、ああいう感覚の人たちが、いまいなくなっているとは思わないんです。だから繰り返しになっちゃうけど、この状況を積極的にとらえれば、ラジオはまだまだ魅力的になれるメディアだと思うんですよ。
 (このインタビューは2001年11月に行われたもので、発言内容はその時点でのデータ、評価に基づいています)

※1 オールナイト・ニッポン 1967年10月1日にスタートし現在も続くニッポン放送の大看板番組。毎週月曜~土曜日の深夜1:00~5:00に全国34局ネットでスタート。スタート時のパ一ソナリテイは、糸居五郎、斉藤安弘、高岡寮一郎、今仁哲夫、常木健男、高崎一郎の6人。74年から深夜1:00~3:00と3:00~5:00の2部制となり、各曜日2組のパーソナリティが担当するようになった。ティファナ・プラスの「ビター・スウィート・サンバ」にのせて流れる「オールナイトニッポン ゴーゴーゴー!」のセリフを覚えているリスナーも多いはず。時報、CM前のジングルはこの番組から生まれた。

※2 亀淵昭信 69年から「オールナイト・ニッポン」パーソナリティを担当。愛称カメ。アニキ的なキャラクターが受験勉強をしながら深夜放送を聴く若者「ながら族」から圧倒的な支持を受けた。制作出身の社員DJながら、局アナの斉藤安弘氏(愛称アンコー)とのコンビで、「水虫の唄」などのヒット曲も生んだ。意外にもDJ期間は5年程。その後は制作に戻って数々の人気番組を手がけながら、オールナイト・ニッポン人気を支えた。1999年~2005年にニッポン放送の代表取締役社長を務めた。

※3 糸居五郎 スポーツ・アナなどを経て、59年に深夜放送初のDJとして登場。67年の放送開始時から72年まで「オールナイト・ニッポン」月曜日を担当。71年に番組内で挑戦した「50時間マラソンDJ」は特に有名。「夜更けの音楽ファンこんにちは!ゴーゴー、ゴーズオーン!」の名調子は、同番組の代名詞ともなった。リスナーからのリクエストに依らない、自分で選曲するスタイルを貫き通した。84年12月28日死去。

※4 福田一郎 ロックれい明期から活躍した日本における洋楽評論の草分け的存在。海外のアーティストとも交友が深く、執筆活動、TV出演、深夜放送のDJなど幅広い活動で日本の音楽界に多大な足跡を残している。2003年9月4日死去。

※ 若山弦三 映画「007」のショーン・コネリーの吹き替えをはじめ多くの当たり役でも知られる、日本の声優の草分け的存在。落ち着いた知的な語り口でパック・イン・ミュージックの水曜日を担当。

※6 八木誠 TBSラジオ「パック・イン・ミュージック」では若山弦蔵とともに水曜日を担当。「売れるまでやろう」を合言葉に、自分がすすめる洋楽をかけまくり、火をつけたヒット曲も数多い。深夜放送全盛期の一翼を担った名DJの1人。

※7 パック・イン・ミュージック TBSラジオがヤング向けの深夜放送の先陣を切って、67年7月31日にスタート。月曜~土曜までの深夜1:00~5:00放送。スタート時のDJは野沢那智&白石冬美、増田貴光&戸川昌子、なべおさみ&星加ルミ子、ロイ、ジェームス、永六輔、若山弦蔵、福田一郎、北山修。金曜パーソナリティの野沢&白石の声優コンビは「ナチ・チャコ」として超人気者となり、番組の最後までDJを務め上げた。ピッタリ15年目の82年7月31日に番組終了。

※8 NHK-FM 1957年12月24日NHK東京放送局がFM実験放送開始。63年12月6日NHK-FM実用化試験局(8局)が開局。69年3月1日NHK-FM全局(170局)が本放送開始。

※9 FM東京 1960年5月1日初の民間FM実験局としてFM東海がスタート。70年4月26日FM東海からエフエム東京と社名を改めて開局。

※10 NHK-FM「ポップス・グラフィティ」 萩原さんは96年4月から番組終了の2005年3月まで、月曜日のDJを担当。オールディーズを中心に、センスの良い選曲で「知らない曲ばっかりだったけど、よかった!」とリスナーを惹きつけた。

Profile 萩原健太(はぎわら・けんた)
音楽評論家。1956年埼玉県生まれ。78年早稲田大学卒業後、早川書房入社。81年に退社し、フリーとして活動を開始。ビーチ・ボーイズやエルヴィス・プレスリーをはじめ、アメリカン・ポップスに対する造詣の深さは、大瀧詠一や山下達郎など超洋楽マニアの日本のアーティストからも高く評価されている。ラジオのDJやTVのパーソナリティとして活躍する一方、音楽プロデューサーとして数多くのアルバムを手がけている。著書に桑田佳祐インタビュー集「ロックの子」、「はっぴいえんど伝説」「ポップス・イン・ジャパン」など。

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