FMfanのアーカイヴであの時代にタイムスリップ!タイムマシーン特集
ポップスからクラシックまで幅広いジャンルを網羅した音楽情報とオーディオ関連の記事で人気を誇ったFM情報誌「FM fan」のアーカイヴを一挙公開。伝説のライヴリポートや秘蔵インタビューなど、ここでしか見ることのできない貴重なコンテンツ満載!
TOPICS - 1986※当記事の著作権は全て株式会社共同通信社に帰属します。
マイケル・マクドナルド 静かなる男の軌跡
増渕英紀
No.4
Photo: Redferns
アメリカン・ロックシーンの中にあって、最もコンテンポラリーなシンガー・ソングライター、キーボード奏者として知られるマイケル・マクドナルドが1月末に3年ぶりのニューアルバム「ノー・ルッキン・バック」を引っ下げて来日、2度めのソロ・コンサート・ツアーを行った。そこで、マイケルの来日インタビューを交じえながら、彼の音楽の足跡をたどってみた。
●R&B少年マイケル 恵まれた少年時代
マイケル・マクドナルドは、1952年2月12日ミズーリ州セントルイス生まれ。恵まれた家庭環境だったらしく、幼少のころから音楽教育を受け、音楽の道に進むに際しても両親、家族から励まされたという。そして5歳の時にはバンジョーをマスターして、ボブ・クロスビーズ・ボブキャッツのボーカリストだった父とデュエットするなど、少年時代からすでに音楽的才能を発揮していたようだ。やがて彼の興味はバンジョーからピアノへと移ったが、紋切り型の音楽教育に飽き足らなさを覚えたマイケルは独学でピアノを弾き始めた。 17歳になると、ハイ・スクールで知り合った友人とともに、"ブルー(Blue)"というR&B(リズム&ブルース)バンドを結成してリード・シンガーとして活躍、これが彼のプロ第一歩であった。この時のメンバーには新作『ノー・ルッキン・バック』に収録されている「エニー・フーリッシュ・シング」の共作者、チャック・サバテイーノがおり、二人ともR&Bに深く傾倒していたようだ。そのころのことをマイクはこう語っている。「60年代中ごろのことで、ほかの連中はアシッド・ロック・バンド(サイケデリック)を結成して活動していたけど、僕はR&Bバンドをやっていた。だけどセントルイスという土地柄は昔からR&Bが盛んだったんだ。だから、モータウンやスタックスがなかったとしたら、セントルイスがR&Bの一大マーケットになっていたに違いないよ。」そんなマイケルにとって当時最大のアイドルはレイ・チャールズだったそうな。"ブルー"はその後もセントルイスおよび中西部のクラブ・サーキットを中心に活動、マイケルはハイ・スクールを辞めて音楽活動に専念することになる。
●デビューそして、スティーリー・ダンへ
70年に入るとマイケルは単身ロサンゼルスに出て、セッション・プレイヤーとしての活動を開始した。そして72年にはリック・ジェラードのプロデュースで初のソロ・アルバム「ザット・ワズ・ゼン/The Early Recording Of Michael McDonald」をベル・レコードでレコーディングしている。また、その間にセッション・プレイヤーとしてジャック・ジョーンズやデヴィット・キャシディのレコーディングに参加。マイケルは、このセッション時代にドナルド・フェイゲンやウォルター・ベッカーらと知り合い、74年にはキーボード奏者としてスティーリー・ダンに正式メンバーとして加入することになったのだった。
マイケルが参加したころのスティーリー・ダンはちょうど第3期にあたり、メンバーは ドナルド・フェイゲン、ウォルター・ベッカー、デニー・ダイアス、ジェフ・ポカロ、ジム・ホッダー、ロイス・ジョーンズ、ジェフ・バクスター、それにマイケルを加えた8人編成で、3作目の『プリッツェル・ロジック』リリース後の全英、全米ツアーに同行している。
ツアー終了後、スティーリー・ダンは再びメンバー・チェンジを行い、ジム・ホッダー、ロイス・ジョーンズ、ジェフ・バクスターの3人が抜けて5人編成となる(第4期)。そしてスティーリー・ダンは4作目のアルバム『嘘つきケティ/Katy Lied』をレコーディング。この4作目は75年4月にリリースされたが、マイケルはほぼ時を同じくしてスティーリー・ダンを脱退、新たにドゥービー・ブラザーズのメンバーとして迎えられるのである。
●ドゥービーに加入、バンドの色を塗り替える。
マイケルのドゥービー入りのきっかけは、スティーリー・ダン時代の同僚で一足先にドゥービーのメンバーとして活躍していたジェフ・バクスターからの誘いだった。ドゥービーはリーダー格のトム・ジョンストンが病気で倒れたために代わりのメンバーを探している最中で、マイケルはジェフの要請で、すぐにニューオリンズに飛んだ。そして全米ツアーを控えてリハーサル中のドゥービーと合流、2日間のリハーサルの後にルイジアナ州立大学アッセンブリー・センター(キャパシティ18,000人)のステージに立った。
結果は大成功に終わり、マイケルはドゥービー・ブラザーズの正式メンバーとなったのである。それにしてもわずか2日間のリハーサルーで全米ツアーに同行し、ツアーを成功に導いたというのだから、今さらながらマイケルの音楽的センスと勘のよさには感服するばかりだ。
ところでマイケルの加入はドゥービー・プラザーズに大きな音楽的変化をもたらした。それまでのドゥービーといえば、トム・ジョンストンとパット・シモンズのツイン・ギター、あるいはジェフ・バクスター加入後のトリプル・ギターを主体としたギター・サウンドと持ち前のノリのよさで押しまくるロックン・ロール・バンドだったと言っていい。そして意外なことにゲストにキーボード奏者を迎えたことはあっても、キーボード奏者の正式メンバーはかつて一人もいなかったのである。いずれにしろ、マイケルの加入とドゥービーの音楽的変化は切っても切れないものであったことは間違いない。果たして、マイケルの加入後の初アルバム『ドゥービー・ストリート/Takin' It To The Streets(76年3月)では、ギター・サウンド中心のロックン・ロール・バンドから、マイケルのキーボードをフィーチャーしたR&B、ジャズ・ファンク色の濃い都会的で洗練されたスタイルへと大きな変化を見せたのである。
特にリズム・アレンジに凝った高度な即興演奏が随所に繰り広げられ、マイケルのR&Bに根ざしたブルー・アンド・ソウル・スタイルのボーカルもドゥービーに新生面をもたらしたのだった。
その辺の事情をジェフ・バクスターは「ドゥービーの音楽はトムが抜けてから大きく変わったよ。オレはもともとジャズも大好きでね、だから少々変わった面白い試みをしてみたかったのさ。そこである日、マイクに電話してバンドに入ってみないかって誘ったわけさ。マイクが適任だと思ったからね」と説明する。
一方、マイケルは当時を振り返って「僕が加入する以前のドゥービーはギター・サウンドを前面に押し出していた。僕はキーボード奏者だから、最初はどうすればドゥービーのサウンドに合ったアレンジができるのか悩んだよ。難しいと思ったけど、R&Bやジャズなどスタイルの異なった音楽的要素をもっと積極的に取り入れるべきだと主張したんだ。そしてできる限りメロディアスな曲を書くことに自分自身トライしてみたのさ。レコード会社や周囲は、本当にそんなにサウンドを変えちゃってだいじょうぶなのか、と盛んに心配するし、僕白身も多少の不安は感じたよ。でも、いざ蓋を開けてみたらファンがついてきてくれたし、最終的にはレコード会社も納得してくれた、よかったよ」と語る。
実際、新生ドゥービー・プラザーズによるアルバム『ドゥービー・ストリート/Takin' It To The Streets』からは3枚のシングル・ヒット(「ドゥービー・ストリート」76年6月13位、運命の轍」76年8月87位、「イット・キップス・ユー・ランニン」77年1月37位)が生まれ、ファンのドゥービー離れは起こらなかった。なお、76年には最初のベスト・アルバム『ベスト・オブ・ザ・ドゥービーズ』がリリースされ、こちらも大ヒットを記録している。
翌77年1月には病気で戦列を離れていたトム・ジョンストンが正式にグループを脱退、ちょうどニュー・アルバムのレコーディング中であったが、レコーディング゙はそのまま残りのメンバーの手によって続行された。そして同年7月、アルバム『運命の掟/Livin'On The Fault Line』を発表、前作の路線をさらに推し進めた内容で、マイケルがグループの中心的存在であることはだれの目から見ても明らかになったのである。
続いて78年12月にはアルバム『ミニット・バイ・ミニット』をリリース。このアルバムからは『ホワット・ア・プール・ビリーブス』(1位)、「ミニット・ パイ・ミニット」(14位) の大ヒットが生まれ、後期ドゥービーの代表傑作と呼ぶにふさわしい完成度の高さを誇った作品だった。
また、「ホワット・ア・フール・ビリーブス」はケニー・ロギンスとマイケルの共作曲で、ケニー自身もアルバム『ナイトウォッチ』に収録しているほかアレサ・フランクリンをはじめ多くのカバー・バージョンを生み出している。
翌79年2月、76年1月に続き2度目の来日公演を行ったが、4月にはジョン・ハートマンとジェフ・バクスターの二人がグループを正式脱退、この時点でオリジナル・メンバーはパット・シモンズー人だけとなった。しかし、5月にコーネリアス・パンパス(サックス、キーボード、フルート)、チェット・マクラッケン(ドラムス、パーカッション)、ジョン・マクフィー(ギター、フィドルほか)の3人を新たに加えて7人編成で再スタート。そして80年2月、79年度グラミー賞が発表され、ドゥービーはレコード・オブ・ジ・イヤーで『ホワット・ア・プール・ビリーブス』、ソング・オブ・ジ・イヤーでマイケル・マクドナルド(『ホワット・ア・プール・ビリーブス』に対して)など4部門を独占、ここにマイケルの名声と評価は極まったと言っていいだろう。
やがて80年9月には新編成による新作『ワン・ステップ・クローサー』をリリース、ほぼリリースと同時にタイラン・ポーターが脱退し、代わってトップ・セッション・ベーシストのウイリー・ウィークスが加入。その後、準メンバーだったパーカッショニストのボビー・ラカインド(矢沢永吉のプロデューサーとしても知られる)も正式メンバーに加わって8人の大型編成となっている。
しかし、82年になるとドゥービー・ブラザーズはグループの解散を表明、解散に伴う"フェアウェル・ツアー"を行うと発表した。ツアーは7月30日のバージニアを皮切りに全米77か所、計24回公演で行われ、9月10、11日の地元サンフランシスコ近郊のバークレー・グリーク・シアターのファイナル・コンサートで有終の美を飾って惜しまれながら幕を閉じたのである。中でもグリーク・シアターでのファイナル・コンサートにはトム・ジョンストンをはじめ、タイラン・ポーター、マイケル・ホザック、ジョン・ハートマンらのOBも加わり最高の盛り上がりを見せた。
一方、マイケルは82年9月にソロ・アルバム『思慕(ワン・ウェイ・ハート)/If That's What It takes』を発表、アルバム・チャートの6位まで上がる大ヒットを記録、シングル・カットされた「アイ・キープ・フォーゲッティン」も4位を記録している。また、私生活では83年春にシンガー・ソングライターのエイミー・ホランドと結婚し、現在ロスを離れてサンタ・バーバラに住んでいる。
●マイケルの作品を歌っているアーティスト
ケニー・ロギンス、マリア・マルダー、ローレン・ウッド、カーリー・サイモン、アレサ・フランクリン、クインシー・ジョーンズ、ニコレット・ラーソン、パブロ・クルーズ、ミリー・ジャクソン
●ドゥービー解散の真相
それでは、ここで当時さまざまな憶測を呼んだドゥービー解散の真相について、マイケル自身に語ってもらうことにしよう。「正直言ってドゥービー解散の理由は、それまでバンドのみんなでコントロールしてきたものができなくなったからなんだ。一つにはドゥービーというグループ自体がいつの間にかビッグになってしまったために、金銭的にも規模が大きくなって政治力や力関係によって動かされるようになったってことかな。何事もメンバーのところへ決断権がくるのは一番最後になっちゃって、そのころにはもう周囲がさまざまな手を打っていてすっかりお膳立ができちゃってるっていったたぐいさ。決断権はあっても選択の余地がないようなね。本来メンバーによってコントロールされるべきはずのものが、メンバーの手を離れてしまっていたんだ。それじゃ話が違う、これは早いとこ辞めないとドゥービー(アメリカのスラングでマリファナタバコの意味、フリークなニュアンスを持っている)の名がすたる!ってみんなが感じたわけさ。それで解散したんだ。だからメンバー同士は今でも仲がいいし、付き合いもあるよ。再結成?絶対ないとはいわないけど、ベネフィットとかスペシャル・イベントなら可能性はあるだろうね。でも、パーマネントなグループとしてはありえないと思うよ。」
すでに解散して3年半余り。いまさら解散の真相を隠す必然性もないはずだから、どうやらあまりにも巨大化し過ぎたロック・ビジネスのシステムによって、知らぬ間にがんじがらめにされてしまったということが原因のようだ。そして、アーティスト側の最後の切り札が解散だったに違いない。恐るべきかな管理主義、ロックの世界にもジワジワと管理主義が浸透しつつあるようだ。
●生の音を大切にしたい。
ところで、マイケルといえばドゥービーにシンセ・サウンドを持ちこんだ人だが、その本人が最近は多少疑問を感じ始めているようで、反省を込めて面白いことを語ってくれた。「70年代に飛躍的な進歩をとげた技術革新には長所もあるけど、短所もある。というよりは進捗の課程で必ず何かを失ってしまうことに気づいたんだ。たしかに進捗はレコーディングにおいても、ライブにおいても、ミュージシャンの可能性を広げたいという意味ではよかったけどね。だれでも一度は試してみたい、試してみないと分からないということもあって、70年代初めから中ごろにかけてはだれもが盛んにマシーンを遣いたがった。実際、僕もドゥービーにシンセ・サウンドを持ちこんだんだから・・・。10年以上前のことだけど、クラブで演る時にはメンバー全員がお互いの顔を見ながらタイミングを合わせて演奏していたことを思い出す。今はドラム・マシーンにシークエンサー(波長を一定に保つ機械)だね。今回のステージではシークエンサーやクロック(ドンカマ)を使わない曲もあるけど、10年前の感覚がなくなってきているのが残念だし、さびしいね。お互いに顔を見合せてタイミングを合わせるのは大変だけど、それでもあのころの方がよかった。でも、現実問題は僕自身演奏する時クロックに合わせて演奏するし、ほかのメンバーも同様、われながら寂しいんだ。若いミュージシャンたちがクロックや機械に合わせて演ることを先に覚えてしまって、いざライブでドラマーやベーシストと一緒に演った時、ライブのリズム・セクションが完全にタイムをキープしてくれないことに苛立ちを覚えてしまう。そんなシーンを見ていると、それは違う!人間的な不完全なところ、人間らしい小さなミスがライブのいい所なんだと言いたくなるんだ。今回は僕のレコーディングでも、結局一番時間がかかったのはシンセだった。始めはシンセでアコースティックでは生み出し得ない音を作るつもりだったのに、結局は生のシンバルの音の方が全然いいし、アコースティックな響きはとてもシンセでは表現できないことに気がついたんだ。そういった意味では、もう一度生の音が見直されてもいいんじゃないか?そんな気がするんだ」と、マイケルはそう言いながらも、むしろ自分自身にいい聞かせるように語っていた姿が印象的だった。
●友人ケニー・ロギンス、最愛の妻エイミー
ケニー・ロギンスとの共作に触れると、「同じサンタバーバラに住んでいるし、近所づき合いって感じでお互いの為に書いて、お互いにアルバムに入れたりしちゃう。」と雄弁に語るが、エイミーとの共作に触れると、とたんに両手で顔を隠して「僕はほとんど出来上がった作品にちょっと手伝って完成させるだけだよ」といってしきりに照れる。評判通り、真面目でシャイな心優しいロッカーなのである。
●スティーリー・ダン、ドゥービー・ブラザーズそしてソロへ
『嘘つきケティ』スティーリー・ダン
マイケルが正式メンバーとして加入したスティーリー・ダンの四作目。ウイルトン・フェンダー、フィル・ウッズらが参加しており、ソウル・ジャズ色の濃い内容のアルバム。B-④ではマイケルの特徴的なコーラスも聴ける(75年)。
『幻想の摩天楼』スティーリー・ダン
これまでは、どちらかといえばメロウなサウンド主体だったスティーリー・ダンにしては珍しくパワフルでハードなサウンドが特色。この時点でマイケルはドゥービーにいたが、レコーディングにはゲストとして参加している。(76年)
『ドゥービー・ストリート』ドゥービー・ブラザーズ
ドゥービー・ブラザーズの音楽的ターニング・ポイントとなったアルバム。新旧のドゥービー・サウンドが共存しているというのがミソ。トム・ジョンストンのボーカルが一曲だけ収められている。(76年3月)
『運命の掟』ドゥービー・ブラザーズ
マイケル主導の大勢が固まったドゥービーの通算7作目。ビッグ・ヒットこそ生まれなかったが、アルバムとしてはトータルな魅力にあふれている。モータウン・サウンドを今日的にしたような歯切れのよいサウンドが魅力。(77年7月)
『ミニット・バイ・ミニット』ドゥービー・ブラザーズ
マイケルの最高傑作といわれる「ホワット・ア・フール・ビリーブス」と「ミニット・バイ・ミニット」をフィーチャーした後期ドゥービーの代表作。キーボード主体のリズム・アレンジに絶妙のものがある。(78年12月)
『ワン・ステップ・クローサー』ドゥービー・ブラザーズ
スタジオ録音盤としてはこれがドゥービー最後のアルバムとなった。新加入のコーネリアス・バンパスのサックスをフィーチャーしたサウンドはより黒っぽさを増し、しかも極めてポップな音作りになっているのが特徴。(80年9月)
『フェアウェル・ツアー』ドゥービー・ブラザーズ
82年7月から9月にかけて行われたドゥービーの”フェアウェル・ツアー”を収録したライブ2枚組。新旧ドゥービーのメンバーがそろい新旧サウンドの対照が聴きもの。ライブとレコードの違いも明確。(80年9月)
『思慕(ワン・ウェイ・ハート)』
スティーヴ・ルカサー、エドガー・ウィンター、トム・スコットなど多彩なゲスト陣を向かえてのマイケルのソロ第一弾。(72年の『ザット・ワズ・ゼン』を含めると2作目)大ヒット作の「アイ・キープ・フォーゲッティン」収録。(82年8月)
『ノー・ルッキン・バック』
ジョー・ウォルシュ、ランディ・グッドラムらをゲストに迎えてレコーディングされたマイケルのソロ第2弾。前作とは対照的にシンプルで整然とした音作りを繰り広げ、マイケルのボーカルが冴えに冴えている。(85年8月)
『南から来た男』クリストファー・クロス
マイケルがハイ・トーンなボーカルとメロディ・メーカーとしての才能をベタ褒めしたというクリストファー・クロスのデビュー作。メロディ作り、リズム・アレンジなどはマイケルに通じるものが感じられる。(83年12月)
(増渕英紀)
