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FMfanのアーカイヴであの時代にタイムスリップ!タイムマシーン特集

ポップスからクラシックまで幅広いジャンルを網羅した音楽情報とオーディオ関連の記事で人気を誇ったFM情報誌「FM fan」のアーカイヴを一挙公開。伝説のライヴリポートや秘蔵インタビューなど、ここでしか見ることのできない貴重なコンテンツ満載!

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ティーンエイジアイドル図鑑

チャートをにぎわす女性アーティストたち/東ひさゆき
No.2

ティーンエイジアイドル図鑑
Photo: Getty Images

●1987年11月7日はアイドル記念日
「ふたりの世界」が1位になったから11月7日はアイドル記念日――まだブームと呼ぶには早すぎるかもしれないけども、昨今の10代の歌手の活躍を見ていると、この11月7日付のビルボード誌シングル・チャートでティファニーの歌うその歌がNo.1に輝いたことは象徴的な事件ではある。
事の発端をどこに定めるかは難しい。83年のニュー・エディションか、それとも86年のチャーリー・セクストンやジェッツか。いずれにしても、今年になって次々と10代の歌手が名乗りをあげてきたのは事実で、グレン・メデイロスを除くと女性歌手というのも気になるところである。ティファニーは16歳。デビー・ギブソンも16歳。シャニース・ウィルソンとANAにいたっては各々14歳、13歳で、エリサの18歳という若さがかすむほどである。
残念ながら、こうした10代の突然の台頭に関して、はっきりとした理由はわからない。ただ、一つにはポピュラー・ミュージックがあまりにも成熟してしまったことへの反動かもしれない。例えば若者の音楽といわれたロックでさえファンとともに成長し、今では大人が聴ける内容を持つ。逆の見方をすれば、ロックをもっとも支持する10代のファンにとって、時にはそれがかけ離れたものになりかねない。このところ60年代や70年代前半からのスターたちが全般的に下降気味なのも無関係ではないだろう。
もう一つあげるとすれば、MTVの影響も考えられる。ビデオ・クリップがアーティストに必要不可欠のものになれば、ビジュアル面が重視されてくるわけで、そうなるとますます若さが最大の武器となる。それでなくとも、若いということ、ファンと同年代であるということはいつでも刺激的で、新鮮な魅力にあふれているものである。

●67年にルル、77年にショーン・キャシディ、87年にはティファニーがNo.1
先にあげた5人の若手女性歌手の中ではティファニーの成功が注目に値する。なにしろ、10代の歌手が全米No.1になったのは77年7月にショーン・キャシディが「ダ・ドゥー・ロン・ロン」で記録して以来の快挙。女性歌手になると、67年10月の「いつも心に太陽を」のルルまでさかのぼる。ただし、ティファニー自身は「No.1ヒットを出したけれど、あまりピンとこないの。学校で友だちから言われて、初めて有名人になったのかなと思ったぐらいだもの」と初々しい感想を述べるにすぎない。
そもそも彼女がこの世界に入るきっかけとなったのは、14歳の時、あるショッピング・モールで買い物をしているところをスモーキー・ロビンソンやコモドアーズなどのプロデューサーとして知られるジョージ・トービンにスカウトされたという日本的なパターン。幸い彼女は「小さいころから歌手になることだけが夢で、毎日、ラジオを聴きながら、好きな歌手のマネばかりしていた」音楽少女で、アルバム『ティファニー』は「放課後や休日を利用して1年がかりで録音した約40曲の中からベストの10曲を選んで」完成させている。その中にはトミー・ジェイムス&ザ・ションデルスの「ふたりの世界」、ビートルズの「アイ・ソー・ヒム・スタンディング・ゼア」といったカバー・ソングもある。ともに「私が生まれる前のヒット曲で、ジョージ・ドービンが選んでくれた曲」だが「ふるい歌を歌っている抵抗がまったくなかった」という無心さがはつらつとした作品に仕上がった要因と言える。また、彼女のスタイルにはスティーヴィー・ニックスを意識した面があるとともに、カントリー系の女性歌手に通じる魅惑的な声と色気の持ち主でもあるので、スロ~ミディアム・テンポの曲となると、大人びた表情を見せるのも面白い。そのあたりは「まだまだ私には大きなステージは無理」と、小さな街のショッピング・モールを地道にツアーしてまわる冷静さにもつながるかもしれない。

PROFILE
●ティファニー
ロサンゼルス郊外ノーウォークの出身。本名はティファニー・ダーヴィッシュ。本文とは異なり14歳の時にあるスタジオでスモーキー・ロビンソンをプロデュース中のジョージ・トービンに見い出された説もあり、15歳でMCAから「ふたりの世界で」デビューしたところ。これが全米No.1に。現在は、「思い出に抱かれて」がヒット中。アルバム『ティファニー』もトップ5入り。
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●幼稚園の時から曲を書き始め、ストックは300曲
客観的に見ると、ここに紹介する5人の10代歌手の中で、その将来性がもっとも高く買えるのがデビー・ギブソンといえる。なにしろ、16歳の若さにもかかわらず、自ら作詞・作曲をし、キーボードをこなし、プロデュース、アレンジまで手掛ける多彩な面を既に披露する。
デビュー・アルバム『アウト・オブ・ザ・ブルー』もそんな彼女の才気を感じさせる1枚だ。「80年代の音楽が好き」という言葉を証明するようなメロディメイカーぶりを現代的なポップ・センスとうまくミックスさせている。文句なくキャッチーであるし、その歌声も実にキュートである。
聞けば「4歳からピアノを独学で弾き始め、12歳の時には自宅にスタジオを作り、いろいろと実験していくなかでプロデュースの勉強をした」と言うから本格的だ。また、「幼稚園のころから曲を書き始め、ストックは300曲以上」になるのも、二人の姉をモデルにするなど、身のまわりのさまざまなことに敏感に反応する感受性をもっているからだろう。全米で大ヒットした「オンリー・イン・マイ・ドリームス」は13歳の時に作った曲だという。また、彼女の作品はすでにマイケル・J・フォックスやウーピー・ゴールドバーグの新作映画にも使われているというからたいしたものだ。
それだけに彼女の夢は限りなくある。「グラミー賞を取ること。ヒット曲を次々に発表すること。ビリー・ジョエルと共演すること。ホイットニー・ヒューストンや少年隊(!) など、他人に曲を書くこと。サントラ盤を手掛けること。子供のためのレコードを作ること……」。「年齢ではなく、あくまでも音楽的な面で評価してほしい」という彼女、このまま順調に成長すれば、こうした夢も意外に早く実現するかもしれない。

PROFILE
●デビー・ギブソン
ニューヨークのロングアイランド出身。12歳の時にアトランティック・レコードの目に止まり、16歳になった87年にプロ・デビューを果たす。「オンリー・イン・マイ・ドリームス」「シェイク・ユア・ラブ」はすでに連続でトップ10入り。アルバム『アウト・オブ・ザ・ブルー』でもマルチ・タレントぶりを発揮する。
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●13歳でミュージカルでデビュー 15歳でブロードウェイに
ところで、アメリカには「スター・サーチ」という日本の「スター誕生」にあたるテレビ番組がある。最近ではサム・ハリス、ソーヤ・ブラウン、デュレル・コールマルがそこで認められてレコードデビューを果たしたが、同様にエリサ・フィオリロとシャニース・ウィルソンもこの番組のジュニア部門で優勝した経験を持つ。
その時、エリサは15歳。結局、それを機にクリサリスと契約を結ぶが、ご存じのようにデビューを飾ったのはジェリー・ビーンのアルバム『禁断のプラネット』と少々変則的。だた、それは「40本近いデモ・テープの中からその声の素晴らしさにひかれて選んだ」というジェリー・ビーンのお墨付きを得た訳で、そこから彼女の歌った「フー・ファウンド・フー」がシングル・ヒットする。
恐らくジェリー・ビーンも彼女がそんなに若いとは思わなかったはずで「フー・ファウンド・フー」を含む彼女にとって初のソロ・アルバム『エリサ』でも年齢に似合わぬ成熟した歌声を聴かせる。これはジェリー・ビーンはもとより、マドンナでおなじみのガードナー・コールやレジー・ルーカスらがプロデューサーとして協力したダンサブルで、モダンな1枚で、彼女自身、単に歌うだけでなく「私も3曲ほど共作している」。
とにかく「父親はホロヴィッツのもとで勉強し、今ではテンプル大学のピアノ教師。母親も昔は歌手だった」環境、毛並みの良さがある。「5歳から歌い始め、12歳の時にはプロとして地方のミュージカルに立った」経験があり、クリサリスと契約後もじっくりと時間をかけて歌から踊り、作曲のレッスンを積んできたというから半端じゃない。若いけれども、エリサにすれば満を持してのデビューだったわけだ。

PROFILE
●エリサ・フィオリオ
フィラデルフィア生まれ。10歳で地元のテレビ番組やコマーシャルに出演。12歳になるとプロとしてミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」「クリスマス・キャロル」、15歳の時にはブロードウェイに進出して「三銃士」の舞台に立つ。レコード・デビューは18歳の87年、ジェリー・ビーンの「禁断のプラネット」で果たす。また、そこから「フー・ファウンド・フー」がトップ20入り。
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●3歳でステージを経験、歌のうまさはピカ一
一方のシャニースは11歳で「スター・サーチ」に出演し、その年にはすでにA&Mと契約を交わしていたというから恐れ入る。彼女の場合も音楽的環境は申し分なく「父親はギタリスト、母親はおばと一緒にクリスタル・ペニーという名で歌っていた」。彼女は小さいころから母親についてまわり「3歳で初めてステージに立ち、8歳のころにはスタジオでバック・コーラスの仕事をしたこともある」。そうした経験が才能をさらに磨き上げたのか、ヒット曲「キャン・ユー・ダンス」を収めたデビュー・アルバム『ディスカバリー』を聴くと、とにかく歌のうまさには驚かされる。特に、バラードなんて14歳の歌とは思えない。「本当はずっと早くデビューできるはずだったけど、容姿や声がどんどん変わってしまったので、今まで待ったの」とか。
全体的にはジャネット・ジャクソンに通じるものがあるけれど「知りあいからは母親にそっくりと言われる」。したがって、まずは「自分だけのスタイルを持ちたい」と言う。ここでは「2曲ほど作詞の一部を手掛けたが、収録曲の作者は本人の希望で明らかにできない」そうで、もしかしたらジミー・ジャム&テリー・ルイスあたりが関係しているのかもしれない。

PROFILE
●シャニース・ウィルソン
ペンシルバニア州ピッツバーグの生まれ。8歳の時にロサンゼルス周辺のミュージカルに出演するようになり、10歳の時にはケンタッキー・フライド・チキンのコマーシャルでエラ・フィッツジェラルドと共演する。今年、14歳で『ディスカバリー』を発表しており、そこから「キャン・ユー・ダンス」がチャート・イン。
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●マイケルから日本公演でデュエットの申し入れ
これまでの4人と比べると、まださしたる実績はないけれど、アナもこの機会に紹介しておきたい。実現はしなかったが、彼女はマイケル・ジャクソンから日本公演で「キャント・ストップ・ラビング・ユー」でのデュエットを要請された歌手でもある。
彼女もまた小さいころから音楽に興味を持ち、両親のすすめもあって9歳の時にビー・ジーズやマイケルのボイス・トレーナー、ジーナ・モレットのレッスンを始める。上達はかなり早かったようで、10歳になるころにはマイアミ・サウンド・マシーンのエミリオ・エステファンから共演を申し込まれたり、現在のパーク・レコードとの契約に成功する。なんでもこの会社は彼女のために設立されたものらしく、大手のCBSもその才能を買って販売契約を結んだほど。
デビュー作『シャイ・ボーイ』はビー・ジーズで有名なカール・リチャードソンとホイットニー・ヒューストンのフランク・リイルドホーンがプロデュース。もうひとり、彼女を認めたジェリー・ビーンがリミックスを買って出ている。安定した歌唱力は先の4人に劣らず、のびやかなボーカルと情熱的な説得力がニューヨーク・タイプのダンス・ナンバー、ホイットニーばりのバラードに見事に映える。これだけ歌えれば多くの人が認めるのもわかるし、レコード会社が2、3年後を目標にした育て方をしてるというのも楽しみだ。

PROFILE
●アナ
キューバ生まれのフロリダ育ち。本名はアナ・マリア・ロドリゲスという。10歳の時に現在のパーク・レコードと契約を結ぶが、学業の関係で13歳になる今年まで待って、デビュー・アルバム『シャイ・ボーイ』をリリースする。特にタイトル・ナンバーはニューヨーク、マイアミのクラブ・シーンで話題を呼び、12インチ・シングルではトップ10入りを決める。

(東ひさゆき)

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なんでもやっちゃう デビー・ギブソン

作詞作曲、アレンジ、プロデュース…
No.5

 最新シングル「アウト・オブ・ザ・ブルー」のチャート・アクションも好調なデビー・ギブソン。17歳ながら作詞作曲、アレンジ、プロデュースのすべてをこなして、ほかのティーン・アイドルたちを引き離している。

 「最初は周囲を説得するのが大変だったわ。でも最近はやっと認めてくれて、曲作りもプロデュースも私に任せるっている雰囲気になってきたわね」「次のアルバムはもっとロック/ポップものを多くする予定よ。レコーディングは3月から始めて秋にはリリースしたいと思ってるの」世界中で大人気のデビー、2月はヨーロッパでプロモーション・ツアーを行う。だが、その期間中に「アメリカン・ミュージック・アウォード」出演のため1日だけアメリカに戻るという強行スケジュールもあったが、本人は「コンコルドに乗れるのが楽しみよ」と言っていた。

 夏にはバック・バンドを伴っての本格的な全米ツアーが待っている。アーティストとしての真価をどのくらい見せてくれるのか、今から楽しみだ。

(共同)

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リック・スプリングフィールド 静かな生活から一変 ロックビジネスにカムバック

清重宗久
No.7

リック・スプリングフィールド 静かな生活から一変 ロックビジネスにカムバック Photo: Getty Images

●ちょうど子供も生まれたのでオシメのとりかえに専念しようと長めの休暇をとったのさ
ベテラン勢の〝久々″のリリースが目立った昨年の音楽業界。ここにもう一人、3年ぶりのアルバムでカムバックを果たしたアーティストがいる。リック・スプリングフィールド。彼の話によれば、3年前の武道館のコンサートがワールド・ツアーのファイナルで、それ以降、じっと自宅に閉じこもり、業界のアカを落として、リフレッシュしたところでニュー・アルバム『ロック・オブ・ライフ』を発表。再び、ロックン・ローラーとしての自分を試すかのように浮上してきた。
「1979年から85年までガムシャラに歩き続けてきたからね。少しスロウダウンしないと完全に燃え尽きてしまうと思ったのさ。ちょうど子供も生まれたことだったし、オシメのとりかえに専念しようと、長めの休暇をとったのさ(笑)」
ガッシリとした骨太の体型、そして、ハンサムな顔。話し方はおだやかでとてもシャイな人間という印象を受ける。ステージで見るロックン・ロール小僧とは、明らかに違ったまじめなオトーサンだ。
「子供ができたってことは大きいね。僕の父親が寛大だっただけに、自分もこの子〝リアム〝に対して尊敬される父親にならなくてはいけないっていう気持ちが大きいんだ。だからこの3年あまり、じっくりと自分を見つめ直して、本当に自分の望むアルバムを、時間をかけて作ろうと思ったんだ」
彼自身、自分の父親が他界した時、その父に捧げる見事なバラードを書いたことはわれわれの記憶に新しい。そんな人柄だからこそ、昔の自分を子供の中に見るのであろう。オーストラリアから単身アメリカへ渡り、歌・演奏・演技・モデルとさまざまな仕事をするなかで、自分の場所を見いだした苦労の人が、やっとスロウダウンの重要性に気がついた。
「作曲は1年半ぐらい前から始めていたけれど、仕事っていうのはそれぐらいのもので、あとは何もやっていなかった。一体自分て何なんだろうって考え続けていたんだ。もちろん答えなんて出てはこなかったけれど、ある日突然曲が浮かんでくるようになったのさ。それまでは書こうともしなかったし、たまに書こうと思って部屋に閉じこもってみても何も浮かんでこなかったのだから不思議なものだよね。新しい自分が発見できたんだと思うよ。『ロック・オブ・ライフ』っていう曲もそんなことを歌った曲なんだ。ある日、目が覚めてみたら世の中のすべてが変わっていた。今まで気がつかなかった自分の中の変化に気がついた、そんな内容の曲なんだ」

●今の自分には自分の思ったことをする方が大切だと思った
現在37歳になるリック・スプリングフィールド。彼の言い方では〝やっと大人になった〝そうだが、ロックン・ロールの世界にいれば、なかなか気のつかないことなのかもしれない。自分は曲を書いて、それをレコードにし、演奏すればそれだけでよい。自分の感じたことだけを曲にしようと思いついた最初の1枚ということになる。
「このオフの間、果たしてカムバックがうまくいくかどうか心配しなかったといえば、それはウソになるね。こんなに長い間レコードも出さない、コンサートもしない、テレビ・ラジオ・雑誌のインタビューも一切受けないとなれば、世間が、一体僕のことをどれほど覚えていてくれるかって心配になって当然と思った。だけど、今の自分には自分の思った通りのことをする方が大切と思い、自分の中に閉じこもっていたのさ。僕のことを覚えていてくれるかとか、レコードを買ってくれるかってことは僕が決められることじゃないからね。ファンに任せたわけだよ」
以前、ビー・ジーズが『サタデイナイト・フィーバー』のイメージを完全に取り去るために、なんと6年間ものブランクを作ったと語っていたが、リックの場合はそれとは意見を異にする。彼はこうも語っていた。〝イメージはファンの決めること。僕のコントロールすることではない〝と。彼の話しぶりからも行動からも、この3年間がとても静かなものだったことがうかがえる。やがて、曲が浮かぶようになって、そしてレコーディング。プロデューサーは初期のリックをスターにしたキース・オルセンだ。
「キースのおかげでスターダムにのし上がったと言っていいだろうね。80年の『ジェシーズ・ガール』や『ドント・トーク・トゥー・ザ・ストレンジャー』をプロデュースしてくれたんだからね。このアルバムのための曲が出来上がり、デモ・テープを作って気がついたのは、ボーカル主体のロック・アルバムになるぞっていうことだった。そこで、ボーカル・アルバムが得意なキースにプロデュースを頼むことにしたのさ。そうしたら、彼も気持ちよくOK。久しぶりの彼との仕事、とても楽しかったよ」

●朝起きて子供とドライブしてからレコーディング 楽しいレコーディングだったね
前作『TAO』では、流行(?) に流されそうになるほどシンセを多用し、イメージ・チェンジを図ったリックだが、このアルバムではロック基本に戻り、シンプルで気持ちのよいロックン・ロールでわれわれを安心させてくれる。
「僕としても、久々にシンプルに作ったアルバムとして誇りに思っている。キーボードにしたって、ハモンドを使っているし、ドラムスとベースのアンサンブルもかなりストレートにしたつもりだよ。シングル・ヒットしてくれるとありがたいけれど、僕としては、自分が表現できればそれでよかったからね。シングルのヒット性を見つけようとすれば、それは必ず曲のどこかに入っていると思うけれど、作る時には全く考えなかった。もしもそんなことを考えていたら、ほかのいろいろな雑念が入ってきて、きっとひどい作品になっていたと思うよ」
3年ぶりということもあって、周りのスタッフの気合の入れ方も相当なものだったと思うが、彼自身の仕事ぶりも別人のようだったという。レコーディング期間中は休みもとらず毎日毎日スタジオと自宅の往復。朝から晩まできついスケジュールが続いたという。
「最後のボーカル入れはバハマでやったよ。レコーディングのボーカル・パートは想像以上にノドを使うんだ。だからこのスモッグだらけのロスではすぐに歌えなくなってしまう。そこで気分転換も含めて家族を連れてバハマへ行ったんだ。プロデューサーのキースも家族を連れて来ていたのでとても楽しいレコーディングになったよ。朝起きて、子供を連れて海岸線をドライブして、それからレコーディング。煮つまってくれば、スタジオのドアを開けると真っ青な海。深呼吸をしてスタジオに戻るともうスッキリしているからね。楽しいレコーディングだった」
まったくうらやましい話。そして今年はツアーの年になるそうだが、詳しいスケジュールはまだ決まっていない。しかし、たっぷりと休養をとり、自分の仕事に対する姿勢をつかんだ今となれば、このツアーは彼にとっての大きなターニング・ポイントとなることは確かだろう。そして大好きな日本でのコンサートも約束してくれた。
ロス郊外の自宅で子供の世話をしたり、馬に乗って体力を養ったり、メキシコ陶芸に時間を費やしたりという静かな生活から、一変して激しいロックン・ロール・ビジネスへと戻る――88年はリック・スプリングフィールドにとってまさに〝カムバックの年〝となる。新しい彼を生のステージ上で発見できる日を楽しみにしたい。

(清重宗久)

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フェアーグラウンド・アトラクション これさえきけばホッとする

全英ではこの春アルバム、シングルともにナンバー・ワン
No.19

 むし暑い夏もあと少しの我慢。それに寝苦しくてイライラする夜も、これさえ聞けばホッとするというのがフェアーグラウンド・アトラクションの『ミリオン・キッス』。全英ではこの春アルバム、シングルともにナンバー・ワンを獲得済みの人気グループだ。

 フェアーグラウンド・アトラクションは女性1人と男性3人の計4人組。女性リード・ボーカリストのエディ・リーダーはスコットランド出身で、これまでにアリソン・モイエ、ユーリズミックスなどのバック・ボーカリストとしてツアーに参加した経験を持つ。ギタリスト兼ソングライターのマーク・ネヴィンはサンディ・ショウの音楽監督を務めたこともある人物で、ベースのサイモン・エドワーズもドラムスのロイ・トッズもベテランのセッション・プレイヤーだったそうだ。

 基本的にはイギリス出身のグループなのだが、彼らのサウンドにはニューオーリンズ・ジャズ風の味付けがあったり、50年代のジャズっぽかったりして、けっこうアメリカ的。洗練された現代的な部分とノスタルジックな部分がうまくマッチしている。それに、シンプルで控えめながら、メリハリが効いていて、かなりツボを心得た演奏を聴かせてくれるからエディの歌声の明るさも手伝って、とても明るくさわやかで楽しいアルバムに仕上がっている。でも、エディの声は能天気に明るいのではなく、明るく透明感があり伸びやかな中にも、チラッと影があるところが魅力的なので念のため。聞いていて心の底からリラックスできるグループだ。

 で、オマケとしてもう一人、イギリス出身のジュリア・フォーダムという女性もおススメしておきたい。アルバム・タイトルは『ときめきの光の中で』。キュートなルックスとは相反して、アイドルではない主体性あるサウンドを作り、曲作りだから聴きごたえ十分。

(共同)

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STEVE WINWOOD in Los Angeles

時間のキャンパスに描かれた一枚の絵/清重宗久
No.21

STEVE WINWOOD in Los AngelesPhoto: Getty Images

 スティーヴ・ウィンウッドがティーンエイジャーのころのものなのだろう。
彼がスペンサー・デイヴィス・グループとともに「キープ・オン・ランニング」を演奏している姿が、いま目の前のブラウン管に映っている。PAも何もないガラーンとしたステージでギターを弾きながら細々と歌う“未熟”な姿がそこにある。その時点からほぼ20年、ユニバーサル・アンフィ・シアターでの再会には安心感も似た感激があった。

●20年間の熟成
スティーヴ・ウィンウッドは、デイブ・メイソン・バンド、エリック・クラプトンとのプロジェクトのブラインド・フェイスと60年代を歩き続け、次に自分のグループを確立、そして昨年のザハイ・ライフ』で過去の、“蓄積”を実証してみせたところだった。
昨年あたりから、ピーター・ガブリエル、フィル・コリンズ、ロビー・ロバートソンといった彼の年代の人たちの活躍がチャートをにぎわせている。実力派が本当の力を出し切るステージースティーヴ・ウィンウッドはそんなきっかけを作るミュージシャンの-人だっただけに、2年連続の彼のロス公演は大きな意味を持っていた。ステージのセンター・マイクの前に立ちはだかり、バックのミュージシャンたちを背中で操るワザ、にこやかにステージを進めていく舞台度胸の良さ-これは20年の熟成を待たなければ手に入れられない世界に違いない。

「アーク・オブ・ダイバー」以降、彼のトレードマークとなっていたシンセサイザーの音を基調としながら、「ハイ・ライフ」で見つけた彼の新境地とでもいうべき新しい音―アコースティックに戻った彼の音楽―を織り混ぜてゆく。彼のルーツを思わせる懐かしい曲から新曲まで スティーヴ・ウィンウッドの音楽性という時間のキャンバスに一つ一つの色を重ね、1枚の大きな絵を見せてくれるような壮大なコンサートとなった。
 彼は昨年、同じくロスの、フォーラムという1万7000人収容のスタジアムでコンサートを行っているが、今回はずっと小さい6000人収容のユニバーサル・アンフィ・シアター。4日間すべてをソールド・アウトにしたのはもちろんだが、この程度の規模の会場の方が20年選手スティーヴの声をはっきりと、また温かく聴くことができる。
 このコンサートであと一つだけ特筆するなら、ステージの後方にデンと腰を据えていたドラマー、ラス・カンケルの存在だったろう。彼らの大らかなリズムがあればこそ、スティーヴは思うがままに演奏できたはずだ。
 ラス・カンケルも、ジェイムス・テーラーのバックをスタートに20年以上のキャリアを誇るミュージシャンだ。60年代には顔を合わせることのなかったこの2人のミュージシャンが、今、コンサートの主役になっているのがうれしい。「キープ・オン・ランニング」の歌詞をもう一度かみしめてみることにしよう。

●PROFILE
1948年5月12日、イギリスのバーミンガム郊外の生まれ。
幼いころからピアノを習い、ギターを弾き、兄のマフとともにジャズ・バンドでピアノを弾いていた。63年のスペンサー・デイヴィス・グループに加入。地元で活躍ののち、66年「キープ・オン・ランニング」「ギミ・サム・ラビン」などのヒットを放つ。
 67年脱退後、デイヴ・メイスン、クリス・ウッドらとトラフィックを結成。トラフィックはクリームと並び60年代後半のイギリスが生んだ最も優れたグループの一つであり、中でも『ミスターファンタジー』(’67)、『トラフィック』(’68)はロック史に残るアルバムだ。68年末トラフィックは一時解散、スティーヴはエリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカー、リック・グレッチとセッション・グループ、ブラインド・フェイスを結成。70年トラフィック再編、71年から73年まで精力的にアルバムをリリースするが『ホエン・ジ・イーグル・フライズ』を最後に75年正式解散。その後ソロに転向し、77年に『スティーヴ・ウィンウッド』を発表。86年にリリースした『ハイ・ライフ』ではグラミー賞などを受賞し、世界的に大ヒット。そして88年『ロール・ウィズ・イット』をリリース大ヒット。

(清重宗久)

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ジョージ・マイケルの光と影 ―ジョージ・マイケルにとってのSEX

湯川れい子
No.25

ジョージ・マイケルの光と影Photo: Redferns

 2月19日に武道館で幕を切って落としたFAITHツアーを、8ヶ月後の10月4日にロスのフォーラムで見た。曲目も進行も同じ。でも、照明と舞台装置が日本より豪華なのと、なによりもまず出演者と聴衆が大きく違っていた。もちろんジョージ・マイケルがほかの人に変わったわけじゃなくて、あくまでも彼自身ではあるけれど、もっと大胆で、もっと自身に満ちていて、もっと猥褻で、もっとヒゲモジャラで、もっと声がよく出ていて。一方、聴衆は・・・・・・といえば、もうこれは大違い。90パーセントがバージンで、草食で、小心で、小柄な日本の客に比べて、あちらは90パーセント有経験者で、肉食で、大柄で、恥ずかしさというものを知らず、おまけにボーイフレンドを連れて来ているから、ジョージ・マイケルのコンサートはデートの前戯みたいなものだ。叫び、もだえ、脱ぎ(実際、ステージにパンティが飛んだ!)、しゃがみ込んでの興奮ぶりで、たぶんこの夜だけで、ロスには数人の未婚の母が増えたことだろう。
 しかし、確かにジョージの言葉ではないけれど、「子供を守るには、セックスは悪だと教えてはいけない。もしセックスをカーペットの下に隠したら、それを得るために、子供たちはカーペットの下にもぐらなければいけない」のだし、「他人がベッドで何をしているかなどと、知るべきではない」のである。
 結婚という制度に賛成だ、と語るジョージにとって、セックスとは愛であり、誠意であり、人間が人間らしく振舞うための自己主張であって、卑しいことでも、隠蔽すべき事でもない。名もなく貧しい大衆にとって、最終的な自己主張と武器はセックスしかないことを、24歳のこの若者はちゃんと知っているのだ。そしてセックスとは、大まじめに、大胆に悪びれずに、FAITHFULに扱うべきものだ、ということも。

―ジョージ・マイケルの中の塊り
「FAITH」というアルバムを最初に聴いた時に、何もかもちゃんと用意された、おそろしく老獪なアルバムだと、ジョージ・マイケルの天才ぶりに改めて感心したものであったけれど、このアルバムが持っているものの深さには、実はまだ私自身も気がついていないのではないかと、今になって思っている。
 先行シングルの「I WANT YOUR SEX」を含めると、このアルバムからは「FAITH」「FATHER FIGURE」「ONE MORE TRY」「MONKEY」の5曲が全米ナンバー・ワンに輝いているのだが、どの曲もご存知のとおり、強烈なイメージを想起させはしても、明確にこういう意味だといい切れる歌詞を持っていない。
 その結果、例えばこの5曲からでも、近親相姦、師弟姦、獣姦のうっすらと淡いイメージが漂ってくるし、それらを精神世界、神世界までも高めてしまおうとする誠意の糖衣、コチンと固いジョージの自我の強さが、計算の鋭さが伝わってくる。
 まさか、そこまでの計算はしていないとは思うけれど、この野心、野望とも思えるしたたかさは、この男の何に根ざしているのだろうか。決して物理的にハングリーなジェネレーションではないし・・・・・・と思いながら客席を見回すと、いわゆる白人層に混って、黒人、プエルトリコ、メキシコ、中国、日本など、雑多な人種が多いことに気づくのだ。ひょっとして、ジョージがジョルジオス・キリアコス・パナイオトウという本名を持つギリシャ人であることは、日本人の私には見当もつかないほどの意味を持っているのかも知れない、と思う。もし彼がトルコだったら、もし彼がアラブだったら、それは歴史に新しい展開をもたらすほどに意味のある事なのだから。 育ちも、現在までの道程でもいっこうに挫折や痛みなどなさそうなこの天才のおでこのあたりに、モヤモヤと霧のように漂う憂鬱は、単なる神経の塊りか、はたまたわれわれ日本人にはうかがいしれぬコンプレックスなのか。天才は天才を好む、というけれど、コンプレックスの塊のようはエルトン・ジョンが、ジョージをかわいがる理由に私は興味があるのだ。 ともあれ、24歳かそこいらで、「自分がどこへ行きたいか、残りの(キャッ!)人生をどう過ごしたいのかも見えるようになってきた」なんて、おそろしいことをいうこの男が、もしもある日、研ぎ澄まされた理性よりも激情を、そしてセックスでしか癒すことのできない涙を、ホロリと見せてくれる、なんて時が来たら、きっと私もアメリカ人のように、ギャーと夢中になれるんだろうなあ、と思いつつ会場を後にしたのだった。

(湯川れい子)

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