2019/05/15
フロアの照明が落ちると、楽屋に続く扉の向こうから管や太鼓の快活な音が聴こえてくる。少しずつ広がっていく緊張感。カルナヴァルのバンドのようにメンバーが演奏しながらステージに歩み寄ってくる。湧き上がる歓声。詰めかけた人たちは“彼”の姿を探し、隊列の最後方に見つけると視線をロック・オンする。次の瞬間、どよめきにも似た鈍い響きが足下を伝わってきた。
エルメート・パスコアール。ブラジル北東部出身の“奇才”マルチ・プレイヤーは、夜明けの光が差し込んだ深い森のように濃淡の美しいサウンドで聴き手を包み込んでいった。
規格外のクリエイティヴィティを背景に唯一無二の音楽を奏で続けている彼が、満を持して登場した『ビルボートライブ東京』のステージ。アマゾンのミスティックな自然や風土を凝縮したような、おおらかで豊穣たるクロスオーバー・サウンド。テロワールからのインスピレイションを源とする音楽を創ることとは、まさに彼が実践しているようなアティテュードを指すのではないか――自由奔放な演奏を間近で見詰め、放たれる音に身体を委ねていると、そんな想いが広がっていく。かくして僕は、彼らの音に鷲掴みにされ、冒頭から惹きこまれていった。
エルメートの前には質素な電子ピアノ。後ろにはさまざまな鳴り物が置かれたテーブル。それらを巧みに操りながら、イマジネイション豊かなサウンドが奏でられていく。鍵盤と向き合った彼は、閃きを瞬時に音にできるよう、指先に意識を集中させている。メンバーたちと阿吽の呼吸で重ねられていく音の粒たち。色彩豊かな音の粒子が飛び散り、ぶつかり合いながら舞い上がっていく。そのレイヤーの美しさと言ったら…。ラップ・トップ・ミュージックとは対極にある、人間の鼓動が聴こえてくる音楽だ。
まるで音の密林、あるいは桃源郷、もしくは万華鏡――エルメートが紡ぐ音楽にはさまざまな表現が当てはめられるけど、その音が想像を限りなく膨らませ、僕たちがまだ見ぬ世界へ誘ってくれることは確かだ。アングルを変えれば、すぐ隣にあるのに見過ごしているシュル・レアリスムの世界のような、時間と空間の狭間に転がっている音たち。あるいは、それまでのどの絵画とも違うアンリ・ルソーが描いた『夢』のような…。そんな捉え方をしてもいいかもしれない。
ポリフォニックな響きとポリリズミックな間合い。そして、無垢な旋律。そこからはクラシックの優雅さやジャズの高揚、ブラジルの瑞々しさなどが聴き取れる。だが、他の誰とも似ていない“パスコアール・サウンド”は、いくつもの秘密が織り込まれた重層的で底の見えない音絵巻だ。すべての楽曲に通底しているのは、5人のリズム・セクションが繰り出してくる、高揚感溢れるカルナヴァルのリズム。それは“従来のジャズ”から大きく逸脱し、インドやファンクなどの音楽要素を呑み込んでいったエレクトリック期のマイルズ・デイヴィスが白羽の矢を立てたのもうなずける、細分化されたリズムがうねるサウンド。しかし、決してグロテスクなものではなく、むしろチャーミングな表情を覗かせたりする。同じブラジル出身のアイアート・モレイラやフローラ・プリムが彼を“買った”のも納得だ。実際、2人がプロデュースした『Slaves Mass』(1977年)は、エルメートの名を一躍メジャーにしている。だが、僕が彼の存在を知ったアイアートの『Natural Feelings』(70年)で、すでにエルメートは個性的かつ卓越した演奏を存分に聴かせていたし、マイルズの『Live Evil』(71年)に収められていた「Selim」でのインスピレイションに満ちた詩的な声から感じられる閃きの瑞々しさは、今も心が洗われるほど。
そんな、世紀を跨いで独自の“美”を放ち続けるサウンドが会場いっぱいに広がった今宵。ヴィヴィッドな音の連なりや重なりが開け放たれた爽やかな空間をイメージさせ、聴き手は目を細めたり宙に舞わせたりして、半ばトランス状態になっている人も。ステージを見詰める観客の表情には幸福感が滲んでいる。
エルメートはユーモラスなスキャットで観客の笑いを誘い、コール&レスポンスを楽しみ、メンバーの伸びやかな演奏に加わって鮮やかなアンサンブルを紡ぎあげていく。1つに束ねた銀色の髪がリズムにシンクロしながら背中でスウィングしている。
身体の内側から湧き起こるエモーションの投影としてのタッチのメリハリではなく、器楽的なアタックによって表現される圧巻のダイナミズムと繊細なニュアンスの交錯――これぞパスコアール・サウンドの“快楽”の1つだ。音楽のクリシェに囚われない自由な展開は、紛うことなき“天才”の証と言って差し支えない。まるで仙人のような風貌も含め、80歳を超えたエルメートの神秘性はデビューから半世紀以上を経た今も深まっていくばかり。彼が繰り出してくる音を全身に浴びながら、僕たちは謎解きの手掛かりを探しているような気分になってくるが、これこそ心躍るミュージック・アドヴェンチャーなのでは。聴こえてくる音を入り口に、さまざまな世界に想像を膨らませ、足を踏み入れていく醍醐味がエルメートの音楽にはある。だから、今宵の『ビルボードライブ東京』は、文字通り“冒険の扉”に――最後はエルメート自身のピアノによる美しい旋律が会場を鎮静させていった。
踏み込んだ音の森に身体が包まれていく感覚を、目の前で繰り広げられた100分間の演奏で味わった。
雄大なスケール感とリリカルな旋律を伴ったカラフルな音たち。南米の土着的なリズムの上に超絶な技巧でユニークなサウンドを紡ぎあげていくエルメート・パスコアール。ブラジル音楽の至宝によるレジェンダリーなパフォーマンスを、すぐにでも再演して欲しいと感じたのは、きっと僕だけではないはず。ぜひ、来年の再来日を!
◎公演情報
【エルメート・パスコアール&グループ】
ビルボードライブ東京
2019年5月13日(月)※終了
Photo:Masanori Naruse
Text:安斎明定(あんざい・あきさだ) 編集者/ライター
東京生まれ、東京育ちの音楽フリーク。ゴールデン・ウィークも終わり、晴れた日には初夏の暑さも感じられる薫風の季節。食卓にはビタミンカラーの元気な夏野菜が揃うことも多いのでは。こんな時季には、鮮やかな草花が溢れる地中海の自然に育まれた、溌剌としたワインを楽しみたい。お勧めはシチリア島の土着品種=カタッラット種で造られた白ワイン。程よい酸とミネラルによるストラクチャーが、肉厚なピーマンやズッキーニなどと好相性。初夏にうってつけの1本です。
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