2021/08/25
現地時間2021年8月24日、ザ・ローリング・ストーンズのドラマーのチャーリー・ワッツが80歳で死去したことを彼の代理人が発表した。ワッツは、内容は公表されていなかった手術から回復するために、今年9月から始まる全米ツアーに参加しないことを先日公表したばかりだった。
声明には、「私たちが愛するチャーリー・ワッツの死を発表することは、はかり知れないほどの悲しみです」と綴られており、「本日未明、彼はロンドンの病院で家族に囲まれながら安らかに息を引き取りました。チャーリーはかけがえのない夫、父、祖父であると同時にザ・ローリング・ストーンズのメンバーで、その世代の最も偉大なドラマーの一人でもありました。この困難な時期に、彼の家族、バンド・メンバー、親友のプライバシーを尊重していただきたいと思います」と続いている。
【ロックの殿堂】と【モダン・ドラマーの殿堂】入りしているワッツは、多くの人々からロック史における最も偉大なドラマーと称されている。彼は、ロック、ブルース、R&Bを融合させたバンドの演奏にジャズの感性を取り入れていた。完璧なタイミングでありながら、しばしばビートの周りで遊ぶワッツのプレイ・スタイルは、バンドの広々とした、一見複雑に思えるリズム・パターンを完璧に補うものであり、ベーシストのビル・ワイマンとダリル・ジョーンズと共に、レコーディング・スタジオや特にコンサートで、曲をドライブする、しっかりとした基盤を提供していた。
ワッツは、「ロックは重たいバックビートと共にスイングするものだ」と音楽ジャーナリストのチェット・フリッポに説明したことがある。「楽しいはずであり、だから私は好きなんだ。ダンス・ミュージックなんだ……重たいバックビート、それがロックだ」と語った。この感性はザ・ローリング・ストーンズの不朽のサウンドの特徴となった。
彼のことを「エンジン・ルーム」と呼んでいたギタリストのキース・リチャーズは、米ビルボードに「私にとってチャーリーはザ・ローリング・ストーンズそのものだ」と以前語ったことがある。「私たちは思う存分、どこまでもワイルドになれる。だが、チャーリーは絶対に外すことはない。彼はすべてを固定し、前に進めている」と説明していた。
一方、ワイマンは、ワッツは演奏と楽器の両方において“エコノミスト”であると称賛していた。「たくさんのパーツを取り入れているドラマーたちを見るが、チャーリーは7つくらいしかないんだ」と彼は笑った。「でも他のドラマーと同じくらい、いやそれ以上の音を奏でることができる。なぜなら、彼はそれほどまでに素晴らしいプレイヤーだからだ」と述べた。
また、ワッツはグループの象徴的な成功から最も影響を受けていないメンバーでもあった。ロバート・グリーンフィールドは、著書『STP: A Journey Through America With the Rolling Stones』の中で、バンドが1972年に行った北米ツアーで、プレイボーイ・マンションを訪れた際に、ワッツは女性と戯れるよりもビリヤードをして過ごしていたという逸話を明かしている。
ワイマンは、回顧録『Stone Alone』の中で、「彼は典型的なザ・ローリング・ストーンズではなかった」と述べ、「名声を求めたこともなければ、ポップ・スターダムを求めたこともない。強烈な個性を持ったバンドの中で、彼は真の英国人で変わった存在であり続けた」と振り返った。
英ロンドン北西部のキングズベリーで育ったワッツは、少年時代にサッカーやクリケットをプレイしていたが、早くからジャズに夢中になり、チャーリー・パーカー、ジェリー・ロール・モートン、セロニアス・モンクなどの78rpmレコードを買っていた。最初はバンジョーを弾いていたが、ジェリー・マリガンのドラマーであるチコ・ハミルトンに影響されて、バンジョーのヘッドをスタンドに乗せてスネア・ドラムのように使っていた。1955年に彼の両親が初めて本格的なドラム・セットを購入し、ワッツはハロウ・アート・スクールで学びながら、ジョー・ジョーンズ・オールスターズと演奏したり、クラブやコーヒー・ハウスで演奏した。その後チャールズ・ダニエルズ・スタジオでグラフィック・デザイナーとして働き始めた。
1961年、デンマークで仕事をしていたワッツはアレクシス・コーナーから彼のバンドであるブルース・インコーポレイテッドへの参加を誘われた。英ロンドンに戻り、別の広告会社で働いていた彼は、コーナーを介してブライアン・ジョーンズ、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、そしてイアン・スチュワートと出会った。彼らは、1962年にザ・ローリング・ストーンズを結成した際に、ワッツを誘ったが、1963年1月にようやく参加することになった。
1964年12月にチャーリー・パーカーについての著書『Ode to a High Flying Bird』を出版しているワッツは、「楽しいだろうと思ったし、(他のバンド・メンバーを)気に入った」と語っている。また「一生の仕事になるとは、まったく思っていなかった」とも述べている。
ワッツはドラムを演奏するだけでなく、早くからグラフィック・デザインのスキルでバンドに貢献し、『ビトウィーン・ザ・バトンズ』などのアルバム・ジャケット、ツアー・ステージ、ロゴ、ポスターなどのデザインに協力した。ステージ上では、演奏で代弁する控えめな存在だったが、ワッツはバンド内での自分の価値をよく理解していた。最も有名な逸話として、深夜に酔っぱらって「オレのドラマーはどこにいるんだ」とジャガーから電話がかかってきた時、ワッツは髭を剃り、スーツを着てネクタイを締め、ジャガーのホテルの部屋に行き、ドアをノックして彼の顔を殴り、「二度とお前のドラマーと呼ぶな。お前はオレのファッキング・シンガーだ」と言ったそうだ。
ザ・ローリング・ストーンズの活動以外に、自身のチャーリー・ワッツ・オーケストラと演奏した1986年の『ライヴ・アット・フルハム・タウン・ホール』を始め、様々なアルバムもリリースしている。また、クインテットやテンテットを結成し、2000年には同じくドラマーのジム・ケルトナーとのコラボレーション・プロジェクトを発表した。2017年には、デンマーク・ラジオ・ビッグ・バンドとの2010年のコンサート・コラボレーションがリリースされた。また、ザ・ローリング・ストーンズのツアー・ミュージシャンでサックス奏者のティム・リースのソロ・ジャズ・ライブに定期的に参加したり、様々な都市に滞在している際、お気に入りのクラブや演奏者を頻繁に訪れることで知られていた。
寡黙な態度にもかかわらず、ワッツは過去にいくつかの健康上の問題と向き合ってきた。1980年代前半から中盤にかけて、アルコールやヘロインなどの薬物依存に陥ったが乗り越え、2004年6月に咽頭癌と診断されたが見事に克服した。「私たちは怖かった」とキース・リチャーズはこの直後に語っており、「バンドではメンバーの入れ替わりがあるが、チャーリーがいなければ、ストーンズは存在しない。チャーリーがいなければ、ストーンズを続けることはできない」と説明していた。
音楽活動以外に、ワッツはそのファッション・センスで知られており、2006年に英デイリー・テレグラフによって「世界の男性ベスト・ドレッサー」の一人に選ばれ、米ヴァニティ・フェア誌による「インターナショナル・ベスト・ドレッサー・リスト」の殿堂入りも果たした。妻のシャーリーとともにアラビアン・ホースの繁殖用の農場を所有し、かつてはノース・ウェールズ・シープドッグ・ソサエティの会長も務めた。
1964年に結婚した妻シャーリーと暮らしていたワッツには、娘のセラフィーナ、そして孫のシャーロットがいる。
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