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<わたしたちと音楽 Vol. 44>松尾潔 音楽が与えてくれた、新しい視座と社会の希望
米ビルボードが、2007年から主催する【ビルボード・ウィメン・イン・ミュージック(WIM)】。音楽業界に多大に貢献し、その活動を通じて女性たちをエンパワーメントしたアーティストを毎年<ウーマン・オブ・ザ・イヤー>として表彰してきた。Billboard JAPANでは、2022年より、独自の観点から“音楽業界における女性”をフィーチャーした企画を発足し、その一環として女性たちにフォーカスしたインタビュー連載『わたしたちと音楽』を展開している。
今回のゲストは、音楽プロデューサーの松尾潔。大学在学中からライターとして国内外で取材を重ね、1990年後半からは音楽制作の道へ。R&Bやソウル・ミュージックのムーブメントを牽引する存在として、これまでに多くのヒットソングを手がけてきた。さまざまな女性アーティストのプロデュースを手掛けてきた彼から見た、日本のエンタテインメント業界の課題とは。(Interview:Rio Hirai[SOW SWEET PUBLISHING] l Photo:Shinpei Suzuki)
アーティストとの政治談義が
メディアから無視されるもどかしさ
――松尾さんは音楽プロデューサーとして活躍しながら、エンタテインメント業界の内外に渡るさまざまな社会課題に関しても積極的に発言しています。問題意識を持つようになったのはいつからなのでしょうか。
松尾潔:僕は1990年代の後半まで、洋楽を日本に紹介するライターやジャーナリストの仕事がメインでした。1年の3分の1はアメリカやイギリスで取材をして、集めた素材を日本に持ち帰って記事を作っていたんです。取材したものはほぼ余すところなく全て利用していたけれど、政治や社会の話は使ってくれる媒体がなかなかなかった。でも取材をしていてアーティストと一番盛り上がるのは、政治や社会についての話だったりするんです。例えばニュー・アルバムについて話を聞くアポイントをとっていても、アメリカの大統領選が近ければ、話題はすっかり選挙一色になります。僕が心酔していたR&Bやソウルは、アフリカ系アメリカ人たちの音楽。彼らにとって誰が国のトップになるかはとても重要で、政治や社会と自分たちの暮らしが繋がっているのを日頃から感じていたのでしょう。
彼らが重要だと感じていることを日本で記事にできないもどかしさを感じながらも、徐々にプロデューサーとしての仕事が忙しくなり、取材仕事から退いていきました。それから今に至るまで、ことあるごとに社会に対して「これはおかしいんじゃない?」と感じていて、この年齢になっていよいよ「もう言ってもいいだろう」と思うようになったというか。
音楽を通して出会った、
支配される側の物語
――日本の中でも、松尾さんのご出身地である九州はジェンダーギャップ指数が高い(男女格差が大きい)地域だと言われています。そのような環境で特権的とも言える健康な男性として生まれ育ちながら、ジェンダーギャップについても関心を持つようになったのはどうしてなのでしょうか。
松尾:人の精神性を育むものは、生まれた家や就職した会社のような器だけじゃないと思うんです。育った環境がどうであれ、成人したあとでも自分に気付きを与えてくれる人との出会いはたくさんあるはずです。僕の場合は、父親が好きだったジャズからソウル・ミュージックに辿り着き、その当時一番新しい音楽と言われていたヒップホップと出会い、アフリカ系アメリカ音楽全般に興味を持つようになりました。いつしかそれが仕事になり、さまざまな立場の人と対話を重ねるうちに、背景にどんな歴史や人々の思いがあるかを知り、思いを馳せるようになった。自分は日本に暮らす日本人男性で、結婚して子供もいて、時には「リア充」なんて言われることもありますけれど、音楽を通して虐げられてきた人や支配される側の眼差しをずっと想像してきたんです。
――なるほど、音楽を通して社会への視点も変わっていったのですね。
松尾:僕の場合はそうですね。でも今の日本は、僕がジャーナリストとしてアーティストの政治観を記事にできなかったあの頃からあまり変わらないかもしれない。ある日、哲学研究者の佐々木中さんがXで「『音楽に政治を持ち込むな』の連呼の果てに『音楽に最悪の政治を持ち込んでしまった』ということ」と呟いていたけれど、日本人のアーティストが侵略や虐殺を指示した人物をモチーフにしたMVを作って炎上するような出来事が発生するのも、まさに社会への視点を排除していった結果ですよね。僕は基本的に楽観主義者ですが、「音楽に政治を持ち込むな」という考えは、この国が国際競争力を失っていくことと繋がっているのでは、と思っています。
成熟度や繊細さよりも
わかりやすさが好まれる
――1990年代後半からプロデュース業に軸足を移した松尾さんですが、デビューに携わったSPEEDやMISIA、宇多田ヒカルといったアーティストたちは、それまで主流だったアイドル的な路線とは一線を画した自立した自分像を歌っていたように感じます。
松尾:やはり当時のアイドルは、メガヒットを狙っているマスプロダクツでしたから、世間の最大公約数的な好みが反映されることになります。だから当時の日本の性別役割分担意識が色濃く表れていたとも考えられます。一方で僕がチームの一員としてお手伝いしたR&Bの女性シンガーたちに共通点があるとすれば、“自分の足で歩いている感じ”とでも言いましょうか。R&B自体は当然昔からあるジャンルで、日本で活性化し始めた1990年代後半は、アメリカではポップ・チャートのトップ10がほとんどR&Bだったような時代でした。日本のアーティストも全盛期のジャネット・ジャクソンやローリン・ヒル、TLCを仰ぎ見ていた。そして「人に歌わされている」という感覚が希薄だったからこそ、自立した女性像を感じさせたのかもしれませんね。
――エンタテインメント業界のジェンダーギャップが埋まらない一因として、成熟した女性アーティストが受け入れられづらい、国内のリスナーのキャパシティやリテラシーの問題があるのではないかと思ってしまうのですが。
松尾:思春期に、日本のアイドルを見て育って「女の子ってこういうものだ」と教育されてきた人たちが、それらを卒業した後に成熟した女性のアーティストを聴くようになるかというと、そうではないのかもしれませんね。今は成熟した世界観よりも、わかりやすさが重視されているのを感じます。僕は永六輔さんや山上路夫さんが書いた歌詞が好きなのですが、3分の曲のすごく短い歌詞でも1本の映画を見ているかのように心情が深く描かれていたりする。僕もそういうアプローチをやってみたいと思うこともあるけれど、なかなか期待するようなリアクションが得られないのは、新曲に奥深さや繊細なグラデーションの世界観が求められていないのかもしれないと思います。
まずは男女の数を平等に、
そこから新しい時代が始まる
――あとは音楽やエンタメ業界の管理職層に女性が少ない、という問題が根強く横たわっているのもまた事実です。松尾さんは、この業界で女性が活躍しやすくなるには何が必要だと思われますか。
松尾:フランスのパリテ法(各政党が男女同数・平等な50%ずつの候補者擁立を義務付けられている、フランスの制度のこと)のように、ある一定数の女性の割合を担保するために制度化したほうが良いと思いますね。僕が1980〜90年代にアメリカで取材をしていたとき、30〜40代のアフリカ系アメリカ人の人たちから「自分は奴隷労働を強いられてきたような家系の生まれだけど、親戚の中でもはじめて自分がアファーマティブ・アクションで大学に入れた」という話を聞くことがありました。彼らは「そういう時代に生きる自分が見てきたことを歌にするのが、自分のミッションなんだ」と熱く語ってくれましたね。アファーマティブ・アクションとは差別の解消に向けて積極的な措置をとることですが、これだけジェンダーギャップ指数が低い日本では、それも必要だと思います。
――そうですね。松尾さんのように音楽をきっかけに社会の歪みに目を向けられた人がいるように、音楽は人々の意識を変えるのにとても有効なアプローチになり得ると思います。だからこそ、それを生み出す業界の構造から変わっていく必要があると感じます。
松尾:パンデミックの拡大期に「不要不急」とよく耳にしました。たしかに音楽やエンタテインメントは不要不急のものかもしれない。でも僕は政治や経済が“大動脈”だとしたら、毛細血管のように人にしなやかさを与えるものが音楽だと考えています。しなやかさや風通しの良さに欠ける社会は、不自由で息苦しいですよね。
プロフィール
1968年、福岡県生まれ。音楽プロデューサー、作家。少年時代からR&Bやソウルに傾倒し、早稲田大在学中からライターとして国内外で取材活動を展開。評論の寄稿やラジオ・テレビ出演を重ねる。90年代半ばから音楽制作へ。SPEEDやMISIA、宇多田ヒカルのデビューにブレーンとして参加。平井堅、CHEMISTRY、JUJUらにミリオンセラーをもたらす。2008年、EXILE「Ti Amo」(作詞・作曲)で、【第50回日本レコード大賞】の<大賞>を、2022年には天童よしみの「帰郷」で【第55回日本作詩大賞】を受賞した。著書に小説『永遠の仮眠』(新潮社)、新刊『おれの歌を止めるな ジャニーズ問題とエンターテインメントの未来』(講談社)など。
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