Special
熊木杏里 【chocolate mix】
2005.3.27(日)at 高田馬場CLUB PHASE
聞き覚えのあるピアノの音色。17歳のころ~今に至るまでの自分の歴史、その歳、その歳の自分の価値観、そこから生まれる想いをフィードバッグさせながら切々と“私”を歌い上げていく熊木杏里。先までなぜか野球の話で盛り上がっていた、おそらくは別の出演アーティストのファンも、彼女があまりにも赤裸々に自分をさらけだすので、思わずその歌声、表情、想いに引き寄せられ、「すげぇ、レベルがちげぇ(誰と比べてかは分かりませんが)」と一言。うん、自分もそう思う(笑)。
「久しぶりに私のうしろにたくさんの人(バンドメンバー)がいて」と、彼女。デビュー時からの付き合いとなるキャリアもテクニックも彼女との相性もばっちりなミュージシャンたちが今夜の彼女のライヴを支え、熊木杏里の歌声の輪郭をより明確なものにしていく。
今歌った曲が先日リリースされたばかりのアルバム『無から出た錆」の中に収録されていること(『長い話』)、その曲の中からひとつでもみんなに共感を与えられるフレーズがあったら嬉しいという話、続いて披露する曲『夢のある喫茶店』の紹介を最初のMCで行う。そして夕焼け色に染まったステージで、自分の想いひとつひとつに優しく触れるようにその手を動かしながら、この曲もその詩世界に聴き手をゆっくりと、しっかりと、どっぷりと優しく浸らせていく。「喉のガンで歌を一度諦めちゃった女性と会ったり、“グラウンド・ゼロ”の影響で不幸になってしまった人のことを考えたり、今はサラリーマンのお父さんもミュージシャンになりたかったことを思い出したり、色々考えさせられることがあった中で、私は諦めないで、自分は自分でどんな夢だって良いからちゃんと持っていこうと思ったんですよね。」、先日のインタビューで彼女自身が語っていた事を彼女は正に表現、体現していた。
そんな想い溢れる一曲を歌い終え、少し沈黙が流れると急に笑い始める彼女。「この沈黙を楽しんでしまうところがあって(笑)」、さすがである(笑)。そんな超越した(?)肝の据わりようを感じさせた後、『3年B組金八先生』の挿入歌であった『私をたどる物語』が誕生した経緯を若干、金八先生のモノマネ(!?)も入れつつ、説明(詞は武田鉄矢が『金八先生』に宛てた想いで、彼女がその詞に「曲を付けてみてくれ」と頼まれたのがキッカケで『私をたどる物語』は誕生した)。まるで自分で書いた詞を自分の想いで歌い綴っているかのような感覚を僕らに与える彼女。そしてその歌声はここにいる多くの人にとっての“私をたどる物語”を思い出させるものに。
ボブ・ディランを聴いたのがキッカケで生まれた、初めて彼女の闘争本能というものに火をつけた異色な、でもこれからの彼女の音楽スタイルをうらなうナンバー『景色』を披露する彼女。かつて井上陽水が、吉田拓郎が、若者による若者のための歌をうたい上げたように、彼女もまた自分にしか作り得ないスタイル、メロディ、メッセージでもって会場中のオーディエンスの心に、決して派手ではないけれど、大きな炎ではないかもしれないけど確かな火を燈す。
父親が「この曲、泉谷しげるみたいだね」という感想を述べた話で沸く会場(笑)。
今夜最後の曲は、自分の生まれ故郷である長野、そこでの暮らしを思い出しながら『夏蝉』を歌う彼女。CDで聴いても感じたことだが、こうして目の前でそっと目を閉じ、その手で今この瞬間の空気を感じながら想い100%で歌われると、そこに広がる郷愁の美が、こんなにも胸が締め付けられることがあるのかと思うぐらい僕らの心を強く動かす。思わずため息が漏れた。
さて、セカンドアルバム『無から出た錆』リリース後としては、初めて見る熊木杏里のライヴだったわけだが、正直、その歌声が持つ透明感、純粋さだと感じられたその要素は、前作『殺風景』リリース前後にやっていたライヴからのほうが強く感じさせてもらっていた気がする。でもその透明感が僕らに与えていた“癒し”だったり、漠然とした“優しさ”以上に確かな、素直な彼女の想い、“熊木杏里”という人間が伝わったのは今夜のライヴのほうである。彼女は変化した。ただひとつ、先の僕の後ろにいた、おそらくは別の出演アーティストのファンのリアクションからも分かるように、聴けばその歌声が持つ絶対的な吸引力でもって僕らの心を鷲掴みにしてしまうのは、今も昔も変わらないことだ。
Writer:平賀哲雄
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