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ダイアナ・キング来日記念特集~圧巻の歌声を誇るシンガーの音楽キャリアと波乱含みの半生を辿る
US/ジャマイカの音楽スタイルを縫う、ソウルフルで唯一無二のヴォーカル・スタイルと洒脱なダンス・ビートで、来日を重ねるごとに日本のファンを魅了してきたダイアナ・キング。近年、自身が同性愛者であることを公言したことも大きな話題となり、それがまた世界中でファン層を拡げることにも繋がっている。1990年代にはすでにインターナショナル・スターとしての確固たる地位を築いていた一方で、祖国における同性愛者への不寛容さにおびえ、心を痛め続けてきたし、また、重い病苦と闘ってキャリアの中断も余儀なくされてきた。そんな波乱含みの半生を経た彼女の存在感は、ここにきてまた新たな輝きを増してきている。待望の年末来日公演をより楽しむために、彼女のこれまでのキャリアとそのディスコグラフィーを振り返る。
キャリアの始まりからスターへ登りつめるまで
1970年、ジャマイカは聖キャサリン教区スパニッシュ・タウンに生まれたダイアナ・キング。幼少の頃からその歌唱力が評判を呼び、14歳の頃には首都キングストンで初のレコーディングを行っている。それもレゲエ・ファンならば知らない者がいない名門レーベル≪ジャミーズ≫へである。この録音はダイアナ・フラッシュ(Flash)という名義でなされ、曲はホイットニー・ヒューストンのヒット曲「Saving All My Love for You」のカヴァーだったが、このときからもうアメリカ的なR&Bマナーでのびのびと歌っていて、その歌唱からはジャマイカン・アクセントも、レゲエ・シンガー特有のアクの強い節回しも感じられない。ダイアナ・キングの歌手としてのひとつの大きな特性はこの最初の時点から定まっていたことになる。
10代の彼女は国内各地のホテルを歌い歩きながらキャリアを積み重ねていったが、その流れでホテルのラウンジを主な活動場所にしていたシティ・ヒート(City Heat)バンドに参加することになり、フィーチャリング・ヴォーカリストとして『ワールド・ラプション(World Ruption)』というアルバムも残している。日本盤CDも発売されたこのアルバムで聴けるのは彼女の10代終わり頃の歌声で、歌唱はここでもR&Bシンガーのそれである。このバンドとの活動は1991年頃まで続いた。
続く92年には、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったシャバ・ランクスの世界ツアーに同行、そのダンスホールの花形ディージェイの数々のヒット・シングルにフィーチャーされてきた女性シンガーたちのヴォーカル・パートを代役で引き受けるという重要な役目を担っている。
彼女がソロ・シンガーとして頭角を現すことになるのはその翌年以降だ。映画『クール・ランニングス』のサウンド・トラックに収められたボブ・マーリー・カヴァー「Stir It Up」でインターナショナル・デビューを果たし、ノトーリアス・B.I.G.のファースト・アルバム『Ready to Die』に収められた「Respect」にお呼びの声がかかり、初アルバムにして日本だけで100万枚超を売る大ヒット作となった『Tougher Than Love』(1995年)ヘと繋がっていくのである。祖国のレゲエ文化が本人のバックボーンに色濃く存在しているにせよ、「Stir It Up」以降はほとんどアメリカ主導のメインストリーム向きのプロダクションになっていった。そのせいで、この93年以降の楽曲は、当時の感覚で言えばレゲエを聴いている感じをほぼ抱かせないものだったが、それは≪コロンビア≫レコーズの戦略によるものだ。その、彼女を世界に向けて売り出すための音作りを主導する人物としてレコード会社が白羽の矢を立てたのが、ニュー・ヨークの米人ソングライター/プロデューサーのアンディー・マーヴェルである。それまでにリセット・メレンデス、カヴァー・ガールズ、ワール=ア=ガールらを手掛けていた人物だが、彼はダイアナ・キングのために、『Tougher Than Love』の基調となった、ニュー・ジャック・スウィングやグラウンド・ビートなどのビート感の延長線上にある90年代らしい洒脱なR&Bサウンドを提供した。また、ウィル・スミスの初主演映画『バッド・ボーイズ』の主題歌になった、彼女の代名詞ともなった大ヒット・チューン「Shy Guy」をキングと共作したし、あるいはまた別の共作曲でファースト・アルバム収録曲の「Treat Her Like A Lady」を97年にセリーヌ・ディオンが自身のアルバム『レッツ・トーク・アバウト・ラヴ』でキングを迎えてカヴァーして話題を呼んだのも、キングと並行してディオンとも仕事をしていたマーヴェルの差配によるところが大きい。
▲Diana King - Shy Guy
もともとキングをソロ・シンガーとして独り立ちさせるべくサポートしたのは、ジャマイカの名キーボーディスト/プロデューサーのハンデル・タッカーだが、デビュー・アルバムに彼が関わったのは2曲のみで、かつ、それらの曲にもレゲエの匂いはほぼなく、そもそも彼女の歌唱法が最初から本格R&B路線だったのだからなおのこと、ジャマイカ出身のダイアナ・キングは、大方のレゲエ・アーティストとは随分異質なサウンド・アプローチで世界の耳目を集めることになったのである。唯一、「Shy Guy」を筆頭とする数々の曲で顕著なように、パワフルでなめらかなR&Bマナーの歌の合間に、ジャマイカン・アクセントによるレゲエ・ディージェイのトースティング(ラップ寄りのヴォーカル・パート)を随所に織り込むスタイルが彼女の出自を刻印し、聴く者に強い印象を残し、そのトレード・マークとして確立されることになった。
96年には早くもライヴ・アルバム『Tougher & Live』をリリース。また、同年、日本のレゲエ・ディージェイのパイオニア、ナーキとのコンビネーションでリリースしたシングル「I'll Do It」も25万枚の大ヒットを記録、翌97年には2作目のスタジオ・アルバム『Think Like A Girl』へと快調にリリースが続く。同アルバムもプロデュースは全体の2/3がアンディー・マーヴェル、残りがハンデル・タッカーによるもので、相変わらずジャマイカ臭のない、ソフィスティケイトされたプロダクションの路線が踏襲された。しかしレゲエ/ダンスホール寄りのリズムが増えたり、パトワ(ジャマイカン・イングリッシュ)を強調したり、ディージェイ/レゲエ・トースティング・パートへの比重が若干増すなど、ジャマイカ人アーティストの特性と世界市場に向けたメインストリーム感がどちらもしっかり主張されているという点で非常にバランスのよいハイブリッド感を持った作品になった。映画『ベスト・フレンズ・ウェディング』のサウンド・トラックにも使用されたディオンヌ・ワーウィックの「I Say a Little Prayer」や、カルチャー・クラブの「Do You Really Want to Hurt Me?」といったカヴァーもとてもこなれているし味がいい。
▲Diana King - Say A Little Prayer
2002年、シングル「Summer Breezin'」をリード・チューンとした3作目『Respect』は、マドンナ主宰の≪マーヴェリック・レコーズ≫からのリリースだったことで話題となった。ここでもほぼすべての曲をアンディー・マーヴェルが手掛けているが、粗削りでアーシーな、特にヒップホップのテイストやストリート感覚を押し出した腰の据わったサウンドに舵を切っているのが特徴的だ。ヴォーカル面でもラップ/ディージェイイングのパートが増え、ヒップホップ・ソウルからの影響も色濃く感じさせる、非常に聴き応えのある作品だった。
- 病魔との闘い、カミングアウト、全てをさらけだした現在
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病魔との闘い、カミングアウト、全てをさらけだした現在
それ以降の一定期間は様々なアーティストヘの客演はあったものの、その後は第一線からしりぞく事態になってしまう。二度と歩けなくなる恐れがあると診断されたほど重い多発性硬化症を患い、長期間病魔と闘っていたからである。
しかしその間にもキングは、自ら書きためた曲をセルフ・プロデュースで発表する準備を重ねていた。のちのインタビューでも、その苦難の日々を音楽に助けられたのだと話している。そして奇跡的に体調が回復したあと、満を持して自らのプロダクション≪TLAG(ThinkLikeAgirl)Music≫を興し、2010年、まずは日本オンリーのアルバム『Warrior Gurl』を発表したのだった。
翌11年にはその一部の曲を差し替えた同作のインターナショナル・ヴァージョンとして『Agirlnameking』をリリースしたが、後者アルバムに加えられたシングル「Yu Dun Kno」は、とりわけ鮮烈な印象を残した。母方からインドの血筋を受け継いでいるキングが、インドのシンガー、ガンジャン(Gunjan)をフィーチャーし、デビュー当時からブレインとして寄り添ってきたジャマイカの名プロデューサー、ハンデル・タッカーも手を貸した、自身のオリジンに立ち返ったようなエキゾチックな新機軸を打ち出していたからである。そのタッカーやアンディー・マーヴェルの参加も最小限に抑えられている実質初の自己プロデュース・アルバムとなったこの作品では、円熟味を増したヴォーカル・パフォーマンスが堪能できる。この作品が過去の3作と比較して話題にならなかったことは事実だろうが、自分の楽曲を自分でハンドリングし、自らのインディペンデント・レーベルでリリースする道を選んだことによって、リリースに過去のような宣伝力を伴わなかっただけであろう。収録曲の中にことのほかキャッチーな曲があるわけではないが、これまでのキングの引き出しに溜め込まれてきたあらゆる音楽性とヴァーサタイルなヴォーカル特性が満遍なく発揮され、曲もよく練られていてひとつひとつが味わい深く、まったく聴き飽きしない傑作である。
▲YU DUN KNO (RudeGyaL Mix) - DIANA KING
こうして全作を順に聴き返してみると、寡作ではありながら、そのどれもが他の誰とも似ていない充実作ばかりであることに改めて感じ入ってしまう。
近年の、そしてこれからの彼女を語る際、自身がレズビアンであることをカム・アウトしたことはことのほか重要だ。2012年、彼女は自身のFacebookに投稿した≪YES!! I AM A LESBIAN≫と題したテクストで、「もっと早く公言しなかったことが人生最大の後悔。ありのままの自分としてふるまうことを自制していたのだから」と心情を吐露し、これまでの苦悩を長文で書き綴っている。そこでは、祖国ジャマイカが世界で最も嫌同性愛の国のひとつであることを嘆き、同郷の人々が同性愛者に抱く苛烈な加罰感情への恐怖心も告白している。
キングは現在合衆国に暮らしているが、ジャマイカ人として自身の性的指向を公表することがどれだけの決意を要することだったのかは、あのホモフォビックな国の事情を知る者ならば想像に難くない。自身が同性愛者であることをオープンにしたおそらく最初のジャマイカ人アーティストとなった彼女の勇気はたちまち世界中のLGBTQコミュニティから称賛され、それ以降、彼女のアーティストとしての存在意義は、(本人自身がそれをどれだけ望んでいるか否かは別としても)事実として明らかに変化してきている。自身も男性同性愛者を罰する法律の撤廃を唱えるなど祖国のホモフォビア事情について率直に意見するようになったし、米≪Club Skirts Dinah Shore Weekend≫のようなレズビアン・コミュニティのイヴェントにも積極的に出演し、そこで受けたインタビューがまた世界に発信されることで、性的マイノリティーのスポークスパースンとしての存在感も年々増してきた。さらに今年は公私共に長年のパートナーだったジャマイカ人ヴァイオリニストのミジェーン・ウェブスターと結婚したことも発表された。
▲DIANA KING (LIVE SNIPPET) - SHY GUY 'RELOADED'
かくしてダイアナ・キングは、今、その存在自体が大きなメッセージとなったのである。今後の新曲で、そしてステージで、彼女はこれまでに増して陽性でポジティヴなヴァイブレーションを体現することだろう。そうでなければ、伝えたい人々にメッセージなど届かないからである。ひとりの希有なアーティストが、病魔と心労の末にすべてをさらけだしたのだから、さらなる本当の“旬”はこれからやってくる。これからこそが聴きものだ。
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