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楽園おんがく Vol.36:ジョージ紫 インタビュー

楽園おんがく Vol.33

 旅と音楽をこよなく愛する、沖縄在住ライター 栗本 斉による連載企画。今回は、沖縄のロック史にその名を刻む紫(MURASAKI)のジョージ紫のインタビューをお届け!


 沖縄のロック史、及び日本の70年代ロック・シーンを語るには外せない存在。それが紫(MURASAKI)だ。1970年から紫名義でバンド活動を始め、1976年にアルバム『MURASAKI』でメジャー・デビュー。ディープ・パープルから影響された独得のハード・ロック・サウンドを武器に、オキナワン・ロックの存在感をまざまざとアピールした。

 1978年には一度解散。その後何度か再結成を繰り返していたが、2010年に34年ぶりのスタジオ・アルバム『Purplessence』を発表してからは本格的に活動を再開。リーダーであるジョージ紫(キーボード)以下、比嘉清正(ギター)、下地行男(ギター)宮永英一(ドラム)というオリジナル・メンバーに加え、元「GEORGE MURASAKI & MARINER」のJJ(ヴォーカル)と若き才能のChris(ベース)という布陣で定着している。そして、2016年にはメジャー・デビュー40週年を記念し、原点回帰ともいえる新作『Quasar』も発表した。

 今回は、そんな長い歴史を持つ紫の中核である、ジョージ紫にインタビューを敢行。自身のことを中心に、紫への思いを語ってもらった。。

モーツァルトが幼い頃から作曲していたと知って、
自分も真似事で作曲していました

――ご出身はコザ(沖縄市)ですか。

ジョージ紫:そうです。祖父が移民でハワイに行っていたので、父は日系二世です。終戦後は軍属として嘉手納基地で働いていて、そこで母親と知り合って、僕が生まれました。父はアメリカの国籍を持つアメリカ人だったから、僕が生まれた時もアメリカ領事館に出生登録されて、アメリカのパスポートをもらいました。ただ、基地の中に住んでいたわけでなくて、民家地域に住んでいたので最初に覚えた言葉はウチナーグチ(沖縄の言葉)ですね。4歳の時に幼稚園に通ったんですが、喜納昌吉さんも同じところでした。でも、5歳になったと同時にアメリカンスクールに入れられたんです。

――そこからは、ずっとアメリカンスクールですか。

ジョージ紫:そうですね、基地の中に通っていました。嘉手納(小学校)や宜野湾(中学校)や那覇と北中城村(高校)のスクールに12年通ってからアメリカに渡ってUCLAに行ったんです。

――音楽に目覚めたのはいつ頃なんですか。

ジョージ紫:僕は覚えてないんだけど、母に聞いた話によると、3歳の時にはすでに琉球琴を弾いていたそうです。隣近所のおじいちゃんやおばあちゃんに連れられて沖縄芝居をよく観に行っていたので、それで琉球民謡や琉球舞踊も知りました。幼少時はとても内弁慶だったから、7歳か8歳の頃に、それじゃいけないということで、母がピアノ教室に連れて行ったんです。そこからピアノはずっとやり続けていますね。ピアノが好きになって、作曲家の伝記を読んで、こんな人になりたいと思ったりしましたね。モーツァルトが幼い頃から作曲していたと知って、自分も真似事で作曲していました。

――やはりルーツはクラシックなんですね。

ジョージ紫:でも、父は基地内からレコードをよく買ってきてくれたので、僕はいろんなものを聴くことができましたよ。アメリカの子供向け音楽とか、日本の童謡や美空ひばりなどの歌謡曲も聴いたし。ただ、興味があったのはクラシックでしたね。そこはしばらく変わらなくて、高校生くらいでビートルズが出てきた時も、「こんなのは音楽じゃない、うるさい!」って思ってました(笑)。もちろん、その後はすごく好きになったんですけど。そして、高校を卒業する頃になると、ロック自体がどんどん進化して、少しずつ興味を持ち始めました。そして、周りの友達はバンドを始めたりしたので、僕もピアノが弾けたから誘われるようになって。基地の中ではティーン・クラブというティーンエイジャー向けの娯楽施設があって、そこのホールで週末にダンス・パーティーがあるんです。そういったところで演奏すると、ギャラもらえるから頑張りました(笑)。

――その頃のバンドでは、どういう音楽をやっていたんですか。

ジョージ紫:アニマルズとかビートルズとか、ジミヘンもやりました。好きだったのはヤング・ラスカルズですね。ハモンド・オルガンが入っている曲が面白かったんです。でも、卒業したらすぐにアメリカに行くことになってしまったので、ほんの少しの間なんですけどね。

――アメリカに行くのは前から考えていたんですか。

ジョージ紫:そうですね。他に選択肢が無かったんですよ。僕は国籍上アメリカ人ですから。専攻は数学です。天文学が大好きだったんです。星の名前も全部暗記しているほどで、天文学者か音楽家かどっちがいいかなって考えていたくらい。UCLAではとりあえず数学とコンピュータを専攻したんですけれど、副専攻で音楽を選択して、ピアノと声楽とパイプオルガンを習いました。パイプオルガンは、普段は音楽室でレッスンなんですが、1ヶ月に1回だけシェーンベルクホールという講堂にNHKホールやサントリーホールにあるようなでっかいパイプオルガンがあって、それを弾くのがとても楽しかった。

――当時のアメリカはどんな雰囲気だったんですか。

ジョージ紫:ヒッピーの時代で、ベトナム戦争反対運動なんかが盛んで、もちろんドラッグもたくさん出回っていたようです。でも僕はオタクだったし、一切そういうものは拒否してやらなかった。今思えばクソ真面目でしたね(笑)。その頃、クリームの解散ツアーがあったんですが、そのオープニング・アクトを務めていたのが、ディープ・パープルだったんです。シュラインというホールに観に行きました。まだ第一期の時代だから、「ハッシュ」とかをやっていた頃かな。

――それは貴重なライヴですね。

ジョージ紫:アメリカは楽しかったんですけど、あの頃はまだ徴兵制度があって、あんな馬鹿げたベトナム戦争に行きたくないと思っていたから、2年くらいで沖縄に帰ってきたんです。最初は基地の中の大学に行き直して、また後輩たちとバンドをやりました。それでコザのライヴハウスなんかも覗くようになったんですけど、沖縄のバンドも面白くなっていたんですよ。そのうち、ウィスパーズというバンドをやっていた喜屋武幸雄さんから新しいバンドを結成するから一緒にやらないかと声がかかってクラブで演奏したりしました。

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沖縄の音楽とロックをミックスしたいなっていう意識はずっとあります

――紫はいつ頃結成されたんですか。

ジョージ紫:クラブで演奏している時に、城間兄弟(紫の初期メンバー)に出会って仲良くなったんです。二人のハーモニーがすごくよかったんですよね。彼らはフィリピン人のハーフなんですけど、当時は沖縄にはフィリピンのバンドがとても多かったんです。韓国のバンドもいたし、アメリカ軍人のバンドもいた。でもフィリピン・バンドは演奏のクオリティが高くて、城間兄弟も本当に歌が上手かった。彼らに誘われて面白そうだから一緒にやろうって話になって。でも、僕は自分のやりたいことが、やっぱりディープ・パープルみたいな音楽だったんです。第一期のパープルはキーボードのジョン・ロードが主導権を握っていて、クラシックの要素が強かった。そういうのがやりたいなっていって始めたのが、紫のスタートですね。

――じゃあ、紫の初期はクラシカルな楽曲もあったんですか。

ジョージ紫:ロックとクラシックと沖縄の音階をミックスしてみたり、いろいろ実験もしましたよ。1971年頃の復帰前の話ですけどね。後に坂本龍一さんが沖縄音階を取り入れて話題になったりしたじゃないですか。でも、それより何年も前に実は同じようなことを考えていたんですよ(笑)。

――その頃のコザのロック・シーンはどういう雰囲気だったんですか。

ジョージ紫:パーク・アベニューという通りがあるんですが、全部バーやクラブでした。ただ、ホステスがいて女性とお話しするような店や、ストリップ・ショーをやっている店もたくさんありましたけど。多い時期は、5、6店舗はライヴをやっていたんじゃないかな。沖縄のバンドだけじゃなくて、フィリピンや韓国のバンドも含めて。あと、コザだけじゃなく、那覇の波の上とか、普天間、辺野古、金武町とかにもたくさんあった。だからそういうのも全部入れたら100組くらいはバンドがいたんじゃないかな。ベトナム戦争が終息して基地が縮小されると、どんどん下火になっていったんですけどね。当時のバンドマンって普通のサラリーマンよりは相当儲けていたから、みんなこぞってバンドをやっていました。でも下手だと受けないからだんだん淘汰されました。実際、ビール瓶が飛んでくるなんてこともありましたからね。それで実力あるバンドだけが残っていったんです。毎晩みんな大騒ぎで、ケンカも多かったですね。

――紫はその中でどんな存在だったんですか。

ジョージ紫:好きなことばっかりやっていました。外人から「この曲やってくれない?」といわれて演奏したこともありますけどね。基本的には米兵がファンだったから。ただ、ベトナム戦争が終わることはわかっていたし、外人ばかりを相手にしていてもダメだろうってことで、地元の若者にもアピールしていこうと。紫というバンド名も元々はそこを意識しているんですよ。アメリカ人だけでなく、日本人にも理解できて名前も知ってもらえるバンドにしたかったから。僕の先輩と後輩が作っていたバンドで「自然」というグループがいたんですが、その名前がとても新鮮だったんです。それで僕も日本語でバンド名をつけようと思って。もちろん、ディープ・パープルから取ったというのもあるけれど、紫色って琉球王朝の高貴な色でもあるし、あの漢字自体がバランスの取れたかっこいい字だと思った。そんな理由で付けましたね。僕らは、空軍や海軍の兵隊にファンが多くて、みんな少しインテリなんですよ。沖縄ではコンディション・グリーンというバンドも人気があったんですが、彼らはパフォーマンスがすごかったから若い海兵隊の兵士に受けていて、僕らはもうちょっと落ち着いた人が多かったですね。その差別化が面白かった。



Photo: (C)WWW16 OFFICIAL


――やっぱり米軍がメインのファンだったんですね。

ジョージ紫:その頃はオールナイトのロックフェスもありました。1971年くらいだから、ウッドストックとなんら雰囲気は変わらないんです。あんなに大規模じゃないけど、万座ビーチにホテルができる前にはちょっとした広場があって、そこに2万人くらい集まるんです。入場料は1ドルでしたね。トラブルも多いからセキュリティも大変だったようです。御構い無しにマリファナの匂いも漂っていて(笑)。たまに喧嘩や殺人もありました。まあ、本土ではありえないフェスですよね。そのあたりから、地元の若者もロックに興味を持ち始めたんだと思います。

――本土でのライヴ・デビューは1975年ですが、それまではどういう活動をしていたんですか。

ジョージ紫:本土デビューする前は、もっと地元の若者を大切にしたほうがいいだろうってことで、自分たちでコンサートをあちこちの公民館のようなホールで企画しました。ポスターを作って中学校や高校の前に貼ったら、やっぱり集まるんですよね。だからデビューする前には沖縄の中学生や高校生のファンがけっこういましたよ。

――クラブでも演奏はしていたんですよね。

ジョージ紫:そうです。当時はクラブと1ヶ月とか3ヶ月の契約するんです。でも、お店の専属になるとなかなか野外フェスなどに出られない。週末にフェスやイベントがあるけれど、お店も稼ぎ時だから拘束されるんです。それが嫌で、たまたま営業をやめて閉めていたお店があったのでそこを借りて、自分たちでクラブをやり始めました。本当はいけないんだけど、高校生がたくさん来たんです。警察が来たら、裏口から逃がしたりして(笑)。あとは、極東放送というラジオ局(今のFM沖縄)があって、そこのDJが紫の曲をよくかけてくれて、名前が知られるきっかけになりました。それから音楽雑誌などで、「沖縄にこんなバンドがいる!」って書かれるようになって、音楽業界の人も観に来るようになって、デビューにつながりました。

――1976年にレコード・デビューしてからは、本土に行く機会が増えたんですか。

ジョージ紫:レコード契約すると、全国ツアーやキャンペーンを行うじゃないですか。76年から78年くらいまでは毎年のように長いツアーをやっていました。でもそうなると、今度は店自分たちが経営しているライヴハウスを空けてしまうから、お客さんが来なくなって。地元や基地のファンからは「もっと地元でやってくれ」といわれるし、両立は大変でした。

――でも、ジョージさんはまもなく脱退しますよね。

ジョージ紫:レコード会社自体が海外でも売ろうという考えがあったんです。実際、スウェーデンのレコード会社からはリリースもされました。でも、ちょうどその頃から僕自身は「海外でやるなら、もっと英語をしっかりしないといけない」っていう危機感を感じていたんです。城間兄弟はフィリピンのハーフではあるけれど、沖縄の教育しか受けてないから、英語がネイティヴではないんですよ。そこが気になっていたんです。ドラムのChibi(宮永英一)やギターの(比嘉)清正もストレスを感じていることがあって、僕ら3人が脱退という形になったんです。結局残った3人が紫の名前で活動していたんですけど、うまくいかなくなってしまいました。

――実質的には解散ということですね。

ジョージ紫:それで、沖縄で活動していた外人たちと一緒にMARINERというバンドを始めました。最初のアルバムを作った時に、ロサンゼルスへレコーディングに行ったんですが、僕の後輩で今の紫のヴォーカリストであるJJがサンフランシスコにいたんです。それでスタジオに遊びに来てもらったら、そのままオーディションみたいになって、すぐさまヴォーカリストとして採用することになりました。彼はネイティヴだから英語はまったく問題ないんですが、他のメンバーはみんな外人だからビザの関係もあって、日本で活動するのは難しかった。だから、実質2年ほどでまた解散しました。

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原点回帰と進化を両立させるというイメージ

――アルバムは2枚発表していますよね。

ジョージ紫:世界でも通用する内容だったんだけどね。当時、外タレが日本のバンドではMARINERがすごい、というようなことも言ってくれたりして。でもなくなってしまったから、またいちからのスタート。それで、今度はOKINAWAというグループを沖縄のメンバーで作りました。

――その後、いろんな活動をされますが主軸はなんだったんですか。

ジョージ紫:やっぱりロックですね。沖縄の音楽とロックをミックスしたいなっていう意識はずっとあります。「海人(うみんちゅ)」という琴も取り入れて一緒に作った曲もありますね。

――90年代に、紫は単発で復活していますよね。

ジョージ紫:あれはたまたまなんですが、92年にイアン・ギラン・バンドが沖縄に来たので、声がかかったんですよ。それで、せっかくだからオリジナル・メンバーを集めてやろうってことで、みんな揃ってやりました。城間兄弟もアイランドっていうバンドをやっていたんですけど、彼らも呼んで。コンベンションセンター劇場棟が当日券を求めてきた大勢の人たちが入りきれなかったそうなんですが、これは紫との相乗効果だったと思います。だって、その後イアン・ギラン・バンドが行った本土でのライヴがガラガラだったみたいですから(笑)。あと、97年に、僕らがとても親しかった音響会社の屋嘉部詳さんという人が交通事故で急に亡くなったので、追悼コンサートをやりました。交通遺児のチャリティも兼ねてやったら3000人くらい集まりましたね。

――何回か集まっても本格的に再結成しようとは思わなかったんですか。

ジョージ紫:それぞれのバンドもあるし、僕もOKINAWAでしっかりやっていきたかったからね。でも、OKINAWAっていう名前では、なかなかロック・バンドとして定着してくれなかったのと、いろんな問題が起きたことで空中分解。それで、ジョージ紫プロジェクトという形で再スタートするんだけど、結局それもうまくいかずに解散。その後しばらくしてから、北海道に行ってた宮永英一(Chibi)が帰ってきたので、彼をヴォーカルにしてバンドを始めたんです。そのうち、じゃあ思い切って本当に紫を再結成しようということになって、Chibiをドラムにして、JJをヴォーカル、(比嘉)清正も戻ってきて、下地(行男)も音楽を辞めていたんだけど声をかけて。それと新しくChrisがベースに入って、それで9年前に始めてからずっと続いていますね。

――じゃあ、今のメンバーになってからが、本当の再始動ということですか。

ジョージ紫:そうです。なかでもChrisの存在は大きいですね。彼は若いのにとてもよく勉強しているし、ベース・プレイヤーだけじゃなくて、エンジニアの経験もあるし、アレンジもできる。曲も書けるし、ギターもキーボードも弾けるマルチ・プレイヤーなんですよ。

――彼はどういつながりだったんですか。

ジョージ紫:息子たちのつながりなんですけど、97年の追悼コンサートで紫がステージに立った時に、リハーサルにベースの城間(俊雄)が来られなかったんですよ。そしたら代わりに息子がChrisを連れてきたんです。まだ16歳だったんですが当時から上手くて、いきなりおじさんたちの中に入れられた(笑)。もう20年も前の話ですけど。

――新作アルバム『Quasar』も、Chrisさんが中心になっているんでしょうか。

ジョージ紫:前のアルバム『Purplessence』では彼は6曲、僕が4曲作ったのかな。でも今回はデビュー40周年ということもあって、僕が7曲作りました。だから原点回帰と進化を両立させるというイメージです。数年前に紫を知ったばかりという若いファンも、今回はすごく懐かしい感じがするらしいですね。僕としては、紫でやり残してきた部分と、これからのことも考えながら作った楽曲が揃っています。聴いてもらえばわかるけど、ある曲には僕の大好きなベートーヴェンのピアノ・ソナタ『悲愴』の第二楽章のメロディを使っています。歌のコード進行はまったく別なんだけど。でも、このコード進行には同じベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』の第二楽章の部分を使っている。わかる人はわかると思います。

――これはジョージさんらしい曲ですね。

ジョージ紫:10曲入っていて、昔みたいにレコードのA面とB面に分かれているというイメージもありますね。

――やっぱりどこか70年代っぽさは感じますね。逆に若い人が聴くと新鮮だと思います。

ジョージ紫:そう思っていただけると嬉しいですね。

――このサウンドが、今の紫の音だと考えて間違いないですか。

ジョージ紫:紫かどうかは自分でもよくわからないけれど、Chrisからは「ジョージ節がいっぱいだね」って言われる(笑)。彼の書く曲もいい曲だし、紫らしいと思います。

――全国ツアーも行われましたが、反応はどうでしたか。

ジョージ紫:かなり盛り上がりましたよ。札幌ではアンコールが鳴り止まなくて、全然終わらなかったんです。昔のアルバムも、なぜか札幌がいちばん売れたみたい。他にも全国にいろんなところにファンがいてくれるし、しかもどこにでも来てくれるくらい熱狂的なファンもいるんですよ。だからやっぱりやり続けないといけないなって思いますね。

――今後の目標はありますか。

ジョージ紫:北欧とか、ハード・ロックが受け入れられる国ってあるんですよ。そういうところとかのフェスに出てみたいですね。今の紫だったら、どこに出してもまったく問題ないですから。最近海外からFacebookでメッセージがよく来るんですよ。だから、いろんなところで勝負してみたいですね。

――最後に、楽園音楽というと何を思い浮かべますか。

ジョージ紫:聴くたびに最高だと思うのが、ジョン・ロードがディープ・パープル時代に書いたロック・バンドとオーケストラのためのコンチェルト(1969年のアルバム『Concerto For Group And Orchestra』)だね。ああいうオーケストラとのジョイントはいろんなミュージシャンがやっているけど、あそこまでのクオリティのものは作れてない。あとはエマーソン・レイク&パーマーの『タルカス』なんかも好きだけど、最近ではヴァニラ・ファッジがあらためて最高だなって思います。彼らの音楽がなければ、プログレはなかったし、エマーソン・レイク&パーマーだってドリーム・シアターなんかもないからね。やっぱりそういった名盤を聴いている時が、楽園という感じがするかな。

紫「クエーサー~デラックス・エディション」

クエーサー~デラックス・エディション

2016/06/08 RELEASE
IEZP-104 ¥ 4,400(税込)

詳細・購入はこちら

Disc01
  1. 01.Heaven’s Gate
  2. 02.Red Line
  3. 03.Tale of the Sea
  4. 04.MRSK 312 (Purple Quasar)
  5. 05.Ryukyu, My Home
  6. 06.Borders Drawn in Blood
  7. 07.Stand Your Ground
  8. 08.Koza Rock City
  9. 09.Never Felt This Way
  10. 10.Earth & Sun
  11. 11.Kaleidoscope of Love (Live Version) (Bonus Tracks)
  12. 12.Double Dealing Woman (Live Version) (Bonus Tracks)

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