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ジョン・コルトレーンの命日に寄せて~偉大なるジャズ界の名匠の音楽と2016年に向き合う必要性とは?
ジャズがこの世に生まれて100年余り経つ。その歴史のなかで数々の名演奏家が生まれてきたが、本物のレジェンドといわれる存在はごくわずか。そして、間違いなくその頂点に位置するであろう人物がジョン・コルトレーンだ。思って舞台に立った期間は10数年のみだったが、40歳の若さで亡くなった彼がジャズ・シーンに与えた影響力は計り知れない。今年生誕90周年を迎える奇跡のジャズ・ジャイアンツは、なぜそんなに偉大なのか。そして、今聴く必然性を確かめながら、その魅力に迫ってみたい。
TOP Photo: Michael Ochs Archives / Getty Images
ジョン・コルトレーンは、1926年に米国ノースカロライナ州のハムレットという小さな町で生まれた。両親はともに音楽好きだったので、常に家では音楽に溢れていたのだろう。しかし、実際に楽器を手にするのはハイスクールに入った16歳から。クラリネットを学校のバンドで演奏していたが、その後母親から誕生日プレゼントにアルト・サックスを買ってもらう。以来、サックスは彼のかけがえのないパートナーとなった。
工場で働いたり軍隊に入ったりしながらも音楽は続け、1940年代半ばから本格的にミュージシャンとして活動。1949年にディジー・ガレスピーのバンドに参加したことを契機に、テナー・サックスに転向した。しかし、彼の才能が開花するのはまだまだ先。無名のバンドを転々としながら食いつなぐという生活が続く。1955年にはマイルス・デイヴィスの第一期クインテットに加入し、『'Round About Midnight / ラウンド・アバウト・ミッドナイト』(1955年)や『Cookin' / クッキン』(1956年)などを録音するが、すでに大スターだったマイルスのファンからはあまり評価されず、まもなく退団しすることになる。
しかし、マイルス効果もあって注目されたコルトレーンは、プレスティッジ・レコードと契約。1957年に初のリーダー作『Coltrane / コルトレーン』を発表した。その直後、セロニアス・モンクのバンドに加入して大きな自信を付け、まもなくブルーノートから2枚目のリーダー作『Blue Train / ブルー・トレイン』を発表。自信に満ちた力強いテナーのブロウを聴かせる本作は、初期代表作であると同時に、ハード・バップの傑作として高く評価されている。そしてこの年は、彼にとって大きな飛躍の一年となった。
翌1958年には、マイルス・デイヴィスのバンドに再加入。とにかくパワフルで音の隙間がないくらいに吹きまくるコルトレーンの奏法は、当時ハード・バップの最高峰といわれたソニー・ロリンズとともに人気を集めたが、1959年にマイルスがモード・ジャズを完成させた『Kind Of Blue / カインド・オブ・ブルー』に参加したことをきっかけに、徐々にハード・バップからの脱却を模索する。そして、アトランティック・レコードに移籍し、全曲自作曲で固めた『Giant Steps / ジャイアント・ステップス』を録音。翌1960年にはマイルスのグループを再び脱退した。
マッコイ・タイナーやエルヴィン・ジョーンズらとレギュラー・バンドを組んだコルトレーンは、1960年の秋に大掛かりなセッションを行う。その際の音源から生まれた傑作が『My Favorite Things / マイ・フェイヴァリット・シングス』(1961年)である。ここに収められた4曲はいずれもスタンダード・ナンバーであり、うち2曲でソプラノ・サックスを吹いているのが特徴だ。表題曲は彼の代名詞となるほど親しまれ、ソプラノ・サックスという楽器を一躍メジャーな存在へと押し上げるきっかけにもなった。
1961年にはインパルス・レコードと契約。このあたりからコルトレーンの実験的な冒険が始まる。エリック・ドルフィーと出会い、オーケストラと共演した『Africa Brass / アフリカ・ブラス』(1961年)を皮切りに、熱気に溢れたライヴ・レコーディングの傑作『"Live" At The Village Vanguard / ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1962年)、文字通り美しいバラード・ナンバーが並ぶ『Ballads / バラード』(1963年)、珍しくヴォーカリストと密に組んだ『John Coltrane & Johnny Hartman / ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン』(1963年)など、とにかく音楽的にも幅が広がり、天才的なひらめきだけでなく実は器用なプレイヤーでもあることを証明する時期だといえるだろう。
しかし、そんな多岐にわたる活動の中でも、コルトレーンは少しずつ精神的な高みを追求していく。そして、その感性が頂点に達したのが世紀の大傑作『A Love Supreme / 至上の愛』(1965年)だ。カバラというユダヤ教由来の神秘主義思想に影響を受けた彼は、神への愛をテーマに4部構成による壮大な組曲を作曲。それぞれ、「承認 / Acknowledgement」、「Resolution / 決意」、「Pursuance / 追求」、「Psalm / 賛美」と名付けられ、ピアノのマッコイ・タイナー、ベースのジミー・ギャリソン、ドラムスのエルヴィン・ジョーンズという黄金のカルテットでスピリチュアルな世界を創生した。
その後、コルトレーンは急速にフリー・ジャズへと接近。1965年にはアーチー・シェップやファラオ・サンダースといった気鋭のフリー奏者を加えた大編成のバンドで、『Ascension / アセンション』を発表。強烈な集団即興によるノイジーな演奏は、それまでのコルトレーン・ファンはもちろん、ジャズ・シーン全体にも大きな衝撃を与えることとなった。また、長年タッグを組んできたマッコイ・タイナーやエルヴィン・ジョーンズらとも袂を分かち、新たにピアノのアリス・マクレオド(後に結婚してアリス・コルトレーンとなる)とドラムスのラシッド・アリを迎え、フリー・インプロヴィゼーションに磨きをかけていく。このようにアーティストとして絶頂を迎えていたコルトレーンだが、知らない間に病魔が彼の体を蝕んでいた。遺作となった『Expression / エクスプレッション』を録音してまもなく、肝臓がんにより1967年の7月17日に40歳という若さで息を引き取った。
振り返ると、実質コルトレーンがバンド・リーダーとして活躍したのは、1957年から1967年までの10年余りでしかない。しかし、その間に残した作品の質の高さや幅広さ、そしてその先鋭性は誰にも負けていない。よって、彼が後世に与えた影響は想像を超えている。サックス奏者のみならず、ジャズを志す者は誰しも彼の影響を受けているし、その死後50年を迎えようとしている現在でも、カマシ・ワシントンに代表されるように“新世代のコルトレーン”が誕生している。また、カマシとも共演し、コルトレーンの実の甥でもあるフライング・ロータスは、ヒップホップやビート・ミュージックの観点からコルトレーンの音楽をとらえ、斬新なサウンドを作り上げている。もちろん、彼らとつながっているヒップホップ界の革命児ケンドリック・ラマーにも、そのDNAが継承されているのは想像に難くないだろう。そう思えば、2016年の今こそ、あらためてジョン・コルトレーンの音楽と向き合う必要があるのかもしれない。
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