2019/11/17 12:00
夏に執筆した論文の査読が終わった。指導して頂いた明治大学の鈴木賢志教授に、心から感謝を申し上げたい。本当に有難うございました。
若い頃、研究者になろうと考えたことがあった。当時、国際関係論と国際法を学んでいた私は、両大戦間期の欧州に大きな関心を抱いていた。学生時代は、1980年代の終わりから90年代初頭にかけて、ちょうど、冷戦終結に伴い、ベルリンの壁やソ連が崩壊。間髪入れずに湾岸戦争が始まった時期だった。日本では、バブル経済で時給の高いアルバイトがたくさんあったこともあり、ジムで体を鍛え、旅費を稼いで、大学が休みになると、バックパックを1つ背負って、世界各地を訪れた。
旅の合間に、短いエッセイを英文で書いた。サハリン出身の両親を持つ、韓国系ロシア人について記したものだった。戦前、日本領だった南樺太には、朝鮮半島出身者が約4万人居住していた。だが、1990年に旧ソ連と韓国が国交を回復するまで、韓国となった地にルーツを持つ多くの人々が、故郷の土を踏むことが出来なかった。この話は、当時、そのような出自を持つレニングラード大学(現・サンクトペテルブルク大学)の学生に、実際に出会い、話を聞いて、執筆した。その文章をイギリスで教職に就いている知人に送ったところ、名門大のローカル・シンジケートの会員誌に掲載された。反響は大きく、もっと大学で研究を続けてはどうかという声も頂くことになった。
結局、私は大学院には進まず、テレビ番組の制作者となった。入局当時、実は「報道・国際」に行くようにと告げられていた。学生時代の経験があったから、それを活かすようにとのことだったのだろう。しかしながら、社会人になり、まだわずか数日の私は、音楽番組をどうしても担当したいと主張した。私は視力が良いので、「生意気だ」と書かれた面接官のメモが見えた。人生は不思議なものだ、2010年代に入り、私は「音楽の力」で、世界中を訪れた。2016年からは大学の教員となり、学生たちを指導することともなった。「世界中の音楽を取材すること」「大学の教壇に立つこと」という、20代の頃に選択しなかった、しかし実現したかった「夢」が叶ったのだから。
今回の論文は、2010年代の日本音楽の世界伝播について、私の「ファーストハンド」の軌跡に基づいてまとめ直した資料だ。「ファーストハンド」とは、伝聞ではなく、実際に見て、聞いて、得た情報のことだ。世界のポップマーケットに挑んだアーティストや関係者と共に、私が闘い続けた日々の記録でもある。パブリシティではなく、ファクトベースできちんと後世に伝える必要があると、使命感を持って書き上げた。ただし、字数の問題もあり、2014年までで締められている。翌2015年から、世界の音楽マーケットは再成長を始めた。また、サブスクリプションのローンチにより、国内市場にも大きな変化が生じた。2015年は、後から音楽の歴史を振り返れば「分水嶺」として記録されることだろう。続編を予告する論文は異例かもしれないが、私は、このように末尾を締めくくった。
2015年以降に生じる日本音楽を取り巻く動向と、それに対する解析や、10年代の総括などは、来年度に執筆を希望する「後編」に回さざるを得ないことを、ご容赦頂きたい。少子高齢化が進む日本において、音楽分野でも、海外のマーケットは重要な市場となることは、疑う余地がない。後編と併せて、2010年代というディケイドの日本音楽の世界伝播について、筆者が実際に見て、知ったことを基に、考察していきたい。Text:原田悦志
原田悦志:NHK放送総局ラジオセンター チーフ・ディレクター、明治大学講師、慶大アートセンター訪問研究員。2018年5月まで日本の音楽を世界に伝える『J-MELO』(NHKワールドJAPAN)のプロデューサーを務めるなど、多数の音楽番組の制作に携わるかたわら、国内外で行われているイベントやフェスを通じ、多種多様な音楽に触れる機会多数。
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