2019/10/12 12:00
大学の秋学期が、いよいよ本格化してきた。今期は「国際日本学実践科目」と題された、映像コンテンツの制作と発信を教えている。いわば、私の本業ともいえるこのカリキュラムの礎は、2017年度に上智大学グローバル教育センターで教鞭を取った時に作った。上智大学には、放送番組を収録できるテレビスタジオがある。しかし将来的に、そのような設備を用いたところで放送に携わる受講生は、ごく少数だろう。そう考えた私は、スマホとPCだけで生中継番組を制作する授業を実施した。
YouTube、FaceBookなど、SNSメディアの知人らを招きながら進めたこの講義では、最終日に、「学食」というテーマで生放送番組を制作した。当時の最先端の技術を用いて、学生のPCをスイッチング卓にして配信したこの作品は、残念ながら、本番では技術的トラブルがあり収録に切り替えることになったが、私の目から見ても、相応にクオリティある番組だったと思う。
「1人1メディア」の現代、スマホがあれば、誰もが放送局になれる。その時に重要なのは「フォーマルのリテラシーを持つカジュアルな発信」という意識だ。この意味での「フォーマル」とは。「放送」のことだ。放送は「broadcast」の和訳だが、その名の通り「広く投げる」ということが原義だ。放送の制作段階では、ファクトチェックが重ねられる。これに対し「カジュアル」とは「通信=communications」、とりわけ、SNSなどでの個人投稿を指す。どんなコンテンツを配信するのも自由だが、その責任は自分自身で負わなければならない。
個人で作品を発表する際にも指針になるのが「放送ハンドブック」や「番組基準」だ。SNSは国境を越え、世界中の人々にダイレクトに届く。自分では大丈夫だと思ったことも、他の方には誹謗や中傷、侮辱などと受け取られることもある。放送文化が築いたリテラシーは、そういった過失が発生することを、未然に減らすことが出来るのだ。
先日の授業では、編集ソフトの1つであるプレミアの操作法の講習会を実施した。私が駆け出しの頃は「オフライン」という、ワークテープを用いた編集方法が主流だった。これに対し、ニュースの素材のように、撮影したものをそのまま編集する方法を「ダイレクト編集」と呼ばれていた。ベース(元になる言葉や映像)を繋いで、インサート(音声はそのままで、ベースとは異なる映像を上乗せする技法)を重ねていく。当時はアッセンブル(最初から積算していくモード)しかなかったので、尺(素材の時間を放送ではそう呼ぶ)を調整するためには、最初から何度もやり直す必要もあった。
現在では、編集はノンリニアという方法で行われる。素材をコンピューターに読み込み、画面上でデータ編集する。何回でもやり直せるし、尺調整も容易だ。しかし、技術がどんなに進化しても、「ベース、インサート」など、編集上の基本は同じだ。受講生の多くは、編集ソフトを使うのは初体験だったが、悪戦苦闘しながら、楽しんでいた。
「VTR構成」「スタジオ+VTRインサート」「中継」という番組のカテゴリーや、「発意」「提案」「取材」「交渉」「構成」「撮影」「編集」というプロセスも変わることはない。この世界に入った時に、大先輩から、アメリカで1970年代に出版された放送の教則本を渡された。そこに書かれていたことを思い返してみると、いまでも有用なことばかりだ。テクノロジーの進化は表現の多様化、プロセスの負担軽減、世界中への伝播を容易にするなど、革新的な効果を映像コンテンツに与えている。その可能性を拡げるためにも、学生には「いろはのい」を大切にしてほしいと、強く考えている。Text:原田悦志
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