2019/05/25
1991年春、私は初めてアメリカへと旅に出た。学生の貧乏旅、資金は乏しい。ディスカウント・チケットに、米国内でのフライトがオプションで付いている最安値のものを購入しようとしたところ、宿代の予算が消えた。
インターネットのない時代。私は、米国に住む友人たちに、数日泊めてほしいとエアメールでお願いした。全員から快諾された。いまでも、その厚意に心から感謝している。
まず会いに行ったのは、UCバークレーに交換留学していた大学の同級生だった。サンフランシスコ国際空港は、現在では、空港や街の地理も頭に入っているが、当時は、「おのぼりの異邦人、ここに極まれり」という状態だった。リムジンバスの運転手さんに「バークレーに行きたい」と告げたところ、ユニオンスクエアの近くで「ここで降りて、トレインに乗り換えな」と言われた。大学のドミトリーに泊まらせてもらい、学生たちにいろいろなところに連れていってもらった。
次に、大陸を横断し、ニューヨークに向かった。1989年に、ローマの安宿で一緒になったイタリア系米国人の家にお邪魔した。JFK空港から、マンハッタンにあるポート・オーソリティでバスを降り、地下鉄でブロンクスにある彼の一人暮らしのアパートメントに向かった。ニューヨークの日々は刺激的だった。カーネギー・ホールで初めて音楽を聴いたのも、あの時だ。
NYのペンシルバニア駅から、アムトラックでボストンに向かった。その2年前、ポルトガルの首都リスボンにあるファドを聴かせてくれるレストランで、年老いた姉と、その妹夫婦の3人と親しくなった。「是非、私たちの家にいらっしゃい」。もう1度会いたくて、まず妹夫婦に連絡を取ったところ、「私たちはフロリダのホームで暮らしているけど、息子たちがいるので泊りにいらっしゃい」という手紙が届いた。長男のフィアンセが、Boston Route 128という駅で待っていた。初対面の彼女は、事前に髪や目の色を教えてくれた。その頃、それがアメリカのしきたりだったのかもしれないと知った。特に親しくなったのは、その家の次男だった。フォレスト・ガンプのような風情の彼は、僕がボストン・フィルを聴いた後、会場の出口で待っていてくれた。「ノビー、僕は、クラシック、まだ聴いたことないんだ」「じゃあ、今度、一緒に行こうよ!」その約束は、まだ果たされていない。約束を果たさないと。
それから、お姉さんが住んでいるカナダのトロントへと飛んだ。気の優しい、私と同い年のお孫さんが空港まで迎えに来てくれた。「彼は、too goodなのよ」。祖母は、孫の将来を案じていた。「良すぎる」同級生は、ナイアガラの滝までドライブに連れて行ってくれた。トロントを飛びたつ日、季節外れの雪が降っていた。2時間ほど、離陸まで時間があった。「ノビー、あなたは何がしたい?」「お茶を飲みましょう。あなたが入れた紅茶が、とても美味しいです」。粉雪が舞う彼女の家で、たくさんのことを語り合った。
最後に、シカゴを経由して、カリフォルニアのサンディエゴに向かった。サンディエゴでは、高校時代からの米国人の友人たちが待ち構えていた。日帰りでメキシコにも出かけた。「いつから、アメリカは世界の大国になったんだ?」彼らから、そんな本音も聞かれた。
1ドルも宿代を払わないアメリカ旅行は、全て、出会いから導かれた。人脈は、意図して作るものではないと、私は思う。グルーヴを共有する「類友」が、然るべき場所に呼んでくれるからだ。人生は、そんなものなのかもしれない。Text:原田悦志
原田悦志:NHK放送総局ラジオセンター チーフ・ディレクター、明治大学講師、慶大アートセンター訪問研究員。2018年5月まで日本の音楽を世界に伝える『J-MELO』(NHKワールドJAPAN)のプロデューサーを務めるなど、多数の音楽番組の制作に携わるかたわら、国内外で行われているイベントやフェスを通じ、多種多様な音楽に触れる機会多数。
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