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2019/04/06

1990年3月・レニングラード【世界音楽放浪記vol.42】

旅をすると、まるで導かれたような出会いをすることがある。後にならないと、それが偶然ではなく必然だったと、気付かないことも多い。1990年3月。学生だった私は、まだソ連の一部だったバルト三国を単身で訪れるべく、フィンランドの首都・ヘルシンキへと飛んだ。ところが、空港で荷物が出てこない。バッゲージ・クレームに行くと「届けるから、ホテル名を教えてほしい」と言われた。貧乏学生が、予約などしているはずがない。唯一、宿泊地で知っていたのが、オリンピック競技場にあるユースホステルだった。雪の降りしきる中、公共交通機関を乗り継ぎ、漸く辿り着いた。暫くすると、まるで賓客のように、私のバックパックはタクシーで送り届けられた。荷物を受け取りにロビーに行くと、ロシア人夫婦が困っていた。どうも、フロントの方とうまく話が通じてないようだ。少しばかりロシア語を話す私は、通訳を買って出た。レニングラードから来たという。10日後にあなたたちが住む街に行くと伝えると、是非、御礼をしたいと、住所を渡してくれた。

ご夫妻の自宅は、レニングラード地下鉄の終点駅から近い団地にあった。夕刻、娘さんが帰宅した。自宅にいきなり日本人がいて、とても驚いていた。逆の立場なら、私も同じリアクションをするだろう。彼女には、露和辞典をプレゼントした。

翌日、ご主人が街を案内してくれた。ランチに立ち寄ったのは、彼の友人のコリアン系の方のお宅だった。同世代の男の子がいた。拙い韓国語で挨拶をすると、日本語で返してくれた。壁には「西側」のロックスターのポスターが貼ってあった。音楽の話で盛り上がった。

その夜、レニングラード大学の日本学科に通う、2人の学生を紹介してくれた。スロヴァキアから来たヤーナと、サハリンからやって来たコリア系ロシア人のレーナ。どちらも、日本を知り、学びたいという強い意欲を持った才媛。日本を訪問することを熱望していた。

まず、レーナがやってきた。彼女のルーツは韓国にある。祖父母が日本統治下の時代に樺太に移住したが、終戦後、ソ連と韓国の国交がなかったため、故郷に戻ることが出来なかったのだ。茅ヶ崎の実家に泊めた。ロシア語を話す私のクラスメイトたちが、毎日、歓待した。大学の学食で語り合い、漫画を一緒に読んだ。

続いて、ヤーナと、そのお母さん、お兄さんがやって来た。ヤーナはそれから、スロヴァキアの外務官僚になった。

このようなエピソードは、人生という長編小説の一片のようなフレーズだ。私は、世界中の皆さんにお世話になり、居候を繰り返してきた。1990年に、荷物が届かなかったことが原因で、日本や日本語を学ぶ、境遇の違う同世代の人に会えたことは、私に大きな示唆と影響をもたらした。この経験を英文で書いた私の論考は、ある英国の名門大学のローカル・シンジケートの会報誌に掲載された。評価されたのに、何で留学しなかったのかと、今でも悔いることはある。1991年、ソ連はロシアとなり、レニングラードはサンクト・ペテルブルグへと名を戻した。このような経験が、「日本を世界」へという、私の人生のベクトルの原動力に他ならない。Text:原田悦志

原田悦志:NHK放送総局ラジオセンター チーフ・ディレクター、明大・武蔵大講師、慶大アートセンター訪問研究員。2018年5月まで日本の音楽を世界に伝える『J-MELO』(NHKワールドJAPAN)のプロデューサーを務めるなど、多数の音楽番組の制作に携わるかたわら、国内外で行われているイベントやフェスを通じ、多種多様な音楽に触れる機会多数。