2019/02/09
昨年度 講師を務めていた武蔵大学で、200人近い学生に「いつ、音楽を聴くか?」という質問をした。最も多かったのが夜帯、次に朝帯だ。クールオフする夜には長時間、急いでスタンバイをする朝には自宅内や通学時に短時間、音楽と付き合うという。「オンタイム=仕事や勉強の時間」には、耳をイヤホンで塞ぐことはなかなか難しい。皆さんも、ほぼ同じではないだろうか?
音楽は「オフタイム・パスタイム」。趣味と嗜好が聴取傾向を決める。「1人1ジャンル」のいま、「オンライン・メディア」では、リスティング広告など精緻化が進み、個人のアルゴリズムに合わせて、おススメが現れてくる。若い世代が大事にしている「セレンディピティ=偶然の幸せ」は、少なからず、マーケティング・データに操られている。
私のクラスの学生たちと同じ年頃の時、世界中どこに行っても、尋ねられる話題は日本の音楽についてだった。クラシックとブリティッシュ・ロックばかり聴いていた私は、当初 明確に答えられなかった。歌謡曲さえ聴かなかった私が、日本の民俗音楽のことなど知る由もなかった。民謡や伝統邦楽に仕事として関わることになったのは、1990年代後半のことだ。こんな無知な人間が関わって良いのかと、随分と悩んだ。だが「伝統」や「保存」という、正直 古臭いラベルを剥がし、音楽やパフォーミング・アーツとして見て、聴くと、世界的な共感を得る可能性があることに気付いた。
私は、「音楽原理主義」と呼んでいるが、日本人は「音楽はこうでなければならない」という「声の大きい」ファンが少なからずいる。「クラシックはこうでなければ」「ジャズはこうでなければ」というような方々だ。確かに、正統を守ることは大事だ。しかしながら、音楽は人から人へと受け継がれていく。「変わらないこと」と「変わっていくこと」の調和が、現代に生きる者の心に響き、新しい才能が次代を切り拓く、その繰り返し。でなければ、クラシックもジャズも誕生しなかった。
民謡は、「お稽古民謡」ではなく、「音楽」の視点で見つめ直すと、可能性の宝庫だと思った。そもそも「民の謡」だ。「江差追分」のように、歴史を伴い現地に根差して定型化した曲以外、正調など存在しない。もっと自由に解釈し、現代化して然るべきだ。
私は、m-floの☆Taku Takahashiさんを岐阜県郡上市に誘った。毎年、およそ2か月に渡って開催される郡上踊りは、10種の唄や踊りが お盆の時期には夜通し行われる、日本のレイヴだ。お囃子が演奏する櫓は、いわばDJブース。集う人々は、踊りながら、下駄の音色を響かせる。下駄がパーカッションなのだ。郡上の空気感が、「空気の振動の芸術」という音楽の特性を、ライブで作り上げる。☆Takuさんは「Gujo」というトラックを作った。
民謡だけでなく、歌舞伎、神楽、日本の仏教音楽、日舞など、魅力あふれる「内なる資源」が多数あることに気付いた。「国民楽派」というカテゴリーがクラシックにはある。19世紀から20世紀前半にかけて、中心地だったドイツやフランスだけでなく、その周辺地域のアイデンティティを活かした作品が生まれてきたのだ。「88rising」は、現代の国民楽派なのかもしれない。外を見ることと、足元を見つめること。リスティングではなく、自ら多様な視座を提案することが、これからの音楽に必要なのだと、私は思う。Text:原田悦志
原田悦志:NHK放送総局ラジオセンター チーフ・ディレクター、明大・武蔵大講師、慶大アートセンター訪問研究員。2018年5月まで日本の音楽を世界に伝える『J-MELO』(NHKワールドJAPAN)のプロデューサーを務めるなど、多数の音楽番組の制作に携わるかたわら、国内外で行われているイベントやフェスを通じ、多種多様な音楽に触れる機会多数。
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