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2018/07/02

ピーター・ヒルの『ゴルトベルク変奏曲』 果てなき探求(Album Review)

 1948年生まれのイギリスのピアニスト、ピーター・ヒルの名前を知っている人は、かなりのヲタクである。しかし、彼はある作曲家のコアなファンにとってはお馴染みの名前だ。それは20世紀フランスの作曲家、オリヴィエ・メシアンである。

 ヒルは音楽学者として、シメオネと共著したメシアンの評伝をイェール大学出版局から刊行しており、その著作は本国フランスでも仏訳が出ている(ファイヤール書店)。ほかにもメシアン演奏の手引き、『鳥のカタログ』の詳細な研究のほか、ストラヴィンスキーに関する著作もある。2012年に彼が発見した、『鳥のカタログ』の補遺ともなる『チャバラムシクイ』の世界初録音を含むアルバムは、世界中で高い評価を受けた。

 その他、Naxosレーベルのシェーンベルクやストラヴィンスキー録音はじめ、近代音楽に目を向け続けてきたヒルだが、近年は精力的にバッハに取り組んでいる。そしてそのどれもが非常にクオリティが高い。

 この『ゴルトベルク変奏曲』は、『平均律』第1、2巻、『フランス組曲』に次ぐバッハ録音であると同時に、これも近年の録音たるベートーヴェンの『ディアベッリ変奏曲』のディスクに続く、変奏曲史上の金字塔に対峙した記録である。

 ヒルの演奏は、レガートを軸に、ダイナミックレンジも敢えて狭くとった、柔らかなタッチによるまろやかな暖色のトーンが持ち味だ。テクニックに不足はないが、両手を交差しつつ技巧的に高度なものが求められる変奏などで、腕に覚えある奏者たちが放つブリオやビート感を求めるのはお門違いというもの。しかし、一気呵成に弾き切られるとあやうく耳をすり抜けてしまいかねない音の線をヒルは実に丁寧に描いており、それらの線が折り重なる。

 思い入れたっぷりなアゴーギクを効かせず、愚直なまでにインテンポを遵守するのだが、たとえば第25変奏では、モダン・ピアノの性能を十二分に用いつつ、めまぐるしい転調による風合いの変化を、多彩なタッチで丁寧に陰翳をつけるなど、カラフルになりすぎないように細心の注意を払った音色コントロールの技術を駆使している。

 学者ピアニストといえばチャールズ・ローゼンを思い出すし、彼にも『ゴルトベルク』の録音があった(SONY)。ローゼンの同曲録音も発見に満ちた素晴らしい録音だったが、ピアニストとしての腕前は、ひとことで言ってしまえばローゼンの比ではない。深い読み込みに裏打ちされた解釈の深さを感じさせるのみならず、タッチの質感を思うままに変えてみせるヒルの演奏は、頭でっかちな演奏とは程遠いものであり、聴き手の深い部分にダイレクトに訴えかけるだけの魅力を備えている。

 ヒルの『ゴルトベルク変奏曲』というミクロコスモスの探求は、自筆のライナーノートの最後に引用されている、T,S.エリオットの『4つの四重奏曲』からの印象深い4行詩とともに静かに閉じられる。

わたしたちが探求をやめることはないだろう。
そしてわれわれのすべての探求の目指すところ、
それは、われわれの出発した地に到着すること、
その場所を、初めて知ることなのだ。

 ヒルによるバッハ探求に、まだまだ終わりはみえない。われわれも、恐らくは極めて実り多いものとなるであろうその旅路に付き従ううちに、見知っていた筈のものがまったく新しいのものであったことを知ることになるのだろう。今後の録音にも大いに期待したい。Text:川田朔也

◎リリース情報
バッハ『ゴルトベルク変奏曲』
ピーター・ヒル
Delphian Records DCD34200

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