2018/05/29 12:00
エミール・ギレリスといえば、かつて「鋼鉄のタッチ」というキャッチコピーでその強靭な打鍵が大いに喧伝された。しかし、リヒテルと並び20世紀後半の旧ソ連を代表するこの巨人ピアニストのタッチは、なにも強奏に限ったことではなく、最弱音に至るまで、一粒一粒が信じがたいほど磨き込まれている。
世界第一級の高度なテクニックとそのめくるめく音色美、洞察力深い解釈で、ダイナミックな楽曲では交響的で壮麗なる大伽藍を打ち立てる一方、内省的な作品やささやかな小品にも、慈愛にみちた視線とえもいわれぬタッチで、新たな生命を吹き込み、たちまち珠玉の作品として輝かせる。ギレリスは単なるパワーピアニストなどではなく、20世紀ピアノ界の誇る、真に偉大な音色の魔術師だった。
2016年には、メロディアが「生誕100年記念エディション」として真っ赤な50枚組ボックスを発売したのも記憶に新しいが、ここでご紹介する青い5枚組ボックスは、その衝撃におさおさ劣る内容ではない。なにせ1975年から80年までの、都合5回の完全初出のアムステルダム・ライブ録音という、超お宝アイテムなのだから。
発売したのは、フランスのピアニスト、フレデリック・ドリア=ニコラが創設した、高音質がウリのレーベル、Fondamenta。このボックスは、エミールの孫(つまり父との共演盤もあるピアニストだったエレーナの息子)であるキリル・ギレリスの全面的な協力のもと、フランスのオーディオメーカー、ドゥヴィアレの開発したフェニックス・マスタリングなる最新テクノロジーを通過して我々の手元に届いた。ヒスノイズもあるとはいえ、音質はなべて良好、ギレリスのサウンドが見事に再現されている。
収録曲目では、やはりベートーヴェンが最も注目される。結局心臓発作での急逝により完成をみなかったDGのピアノソナタ全集と同時期のこのライヴを聴くと、ギレリスが、基本的にはライブで真骨頂を発揮したアーティストであったことがよくわかる。
徹底的に磨き込まれたスタジオ録音は、耳にするたびに表現の極北を聴く思い新たにする、厳粛にし荘厳な録音だ。一方でここに収録された第7、8、12、25、26、27、エロイカ・ヴァリエーションでは、もっと自由で柔軟な演奏を聴かせてくれている。どちらのギレリスも捨てがたいが、この内向的なアーティストが勇気を振り絞ってステージに上がってライヴで勝負に出たときに放つ青白い高温の燐光には戦慄すべきものがあって、その特徴は晩年でもなんら変わりはない。
以前の録音より一層の哲学的深みを増しつつ、爆発的な勢いにも欠けていないリストのソナタも素晴らしい。途中、少々記憶が混濁したとおぼしき箇所もあるのだが、ギレリスはちょっとやそっとのミスでは動じない。大局の音楽を見失うことなく、大文字の音楽に回収してしまえる能力は演奏家にとって必須能力の一つであり才能のバロメーターだが、ギレリスは、その点でも極めて優れたアーティストだった。
その他の収録曲録も、モーツァルト、ショパン、ブラームス、スクリャービンにプロコフィエフなど、いずれもギレリスのレパートリーとして定評のあるものばかり。従って、ギレリスやロシアン・ピアノスクールのファンのみならず、初めてギレリスに触れる、という方にも、強力にプッシュできる。それにつけてもギレリス、やはり途方もなく偉大である。Text:川田朔也
◎リリース情報
エミール・ギレリス『The unreleaed recitals at the Concertgebouw 1975, 1976, 1978, 1979, 1980』
FON1803032
関連記事
最新News
関連商品
アクセスランキング
インタビュー・タイムマシン
注目の画像



ベルチャQとアンデルシェフスキのショスタコーヴィチ 世代を代表する奏者たちの共演(Album Review)
クリスティアン・テツラフとリントゥのバルトーク こぼれ落ちんばかりの色(Album Review)
パーヴォ・ヤルヴィ 衝撃的なまでに鮮烈なブラームス(Album Review)
河村尚子のショパン 高度なタッチ・コントロール技術が紡ぎ出す詩情(Album Review)
ロトのラヴェル録音第2弾が早くも登場(Album Review) 














