2018/02/22
まもなくの来日公演を控えたマレイ・ペライアがドイツ・グラモフォンの移籍後第2弾として選んだのは、ベートーヴェンのピアノソナタ第29番『ハンマークラヴィーア』と、『月光』の名で知られる第14番のカップリングである。
ペライアは超絶技巧を誇示したり、鬼面人をおどすようなダイナミックレンジを誇る豪腕ピアニストたちの彼岸にいる奏者で、まろやかな音色を生み出す優れたタッチ技術と、溢れんばかりの抒情性が持ち味だ。そんな彼が『ハンマークラヴィーア』という、超高度な技巧を要求される巨大な構築物からいかなる音楽を紡ぎ出すか、といえば、随所で抒情の泉に杖を当てて優美さを噴出させつつ、さりとてスケール感も蔑ろにはしない演奏だ。
第1楽章冒頭、左手に10度の跳躍のあるフォルティシモの和音連打による4小節と優美な4小節という8小節から、動と静のコントラストが効いており音色は輝く。鍵盤を殴りつけることない打鍵ゆえ、重い和音も抜けがよく、各指の掴む音は分離して、音の粒立ちも揃っている。第1主題のモチーフによる展開部フガートの処理も、混濁させないペダリング技術とタッチコントロール技術を駆使して見晴らしがよい。第2楽章は変則的な小節数の中で飛び回ねるが、ヒステリックな哄笑のみならず、ユーモアとコケットリーも忘れない。
第2小節から26小節にも渡る息の長い主要主題提示からはじまる変奏的展開を交えた第3楽章は、演奏時間が15分を超える長大な楽章。ここでペライアはその真価を存分に発揮している。彼が差し出すさまざまな想念の連鎖は、テクストそのものの嘆き歌のような荘厳さ、沈潜した底にある鈍い燐光を、微細な襞に至るまで綿密細心に彫琢して炙り出す。
10分を超える、こちらも大規模な「いくらか自由な3声のフーガ」の第4楽章は、ベートーヴェンが書いた最も完成されたフーガのひとつだ。第1楽章展開部、あるいはは先般のバッハの演奏からそうだが、メカニックに依拠した演奏とは一味違い、錯雑した各声部を色とりどりの音色でもって描き分ける。作曲技術の粋を尽くしたこのフーガを構造的側面から聴き込むことも、崇高なる音楽にひたすら身を浸すこともできる。押しつけがましさのない演奏というものは、こうしてさまざまな聴き方も受け入れる懐の深さを宿しているものだ。
『月光』は、第1楽章がアレグロで始まる、という当時の常識を転倒させ、第3楽章にクライマックスを築く、当時としては画期的な構成を備えている。ペライアは第1楽章から気負いや甘い感傷とは無縁、淡々と進むのだが、技術的には平易なこの楽章が、一級の名手にかかってこそ珠玉の名品となることに改めて得心させられる。第2楽章では右手の音価を若干伸ばして弾くことで、左手のセミスタッカートと柔らかな対比をつけて印象的だし、第3楽章は、流麗さと力感が程よく調和する、均衡の取れた造形だ。
ベートーヴェンとその作品への愛情と敬意に満ちたこの録音は、真摯なる音楽家の円熟の境地を感じさせる、確かな手応えがある。Text:川田朔也
◎リリース情報
ベートーヴェン ピアノソナタ第29番『ハンマークラヴィーア』、第14番『月光』
UCCG-1788 3,024円(tax.in)
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