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2017/08/08

ピーター・ゼルキン、静謐感を纏った、喩えようもない軽やかな深さ

 すみだトリフォニーホールで十数年のあいだ続けられてきた名物公演、『ゴルトベルク変奏曲』シリーズ。その第11弾として登場したのが、齢70を数えるアメリカの名ピアニスト、ピーター・ゼルキン。こう言ってよければ、同シリーズでもとびきりのビッグネームである。

 彼は1965年の録音デビューを、このJ.S.バッハ畢生の大作『ゴルトベルク』で飾っている。以来、幾度も演奏と録音を繰り返してきた、この別格のレパートリーを後半に配した、待望のリサイタルである。

 前半はモーツァルト。アダージョK.540は、ためいきのような主題を、これ以上ないくらいにほの暗く照らし出し、息をひそめる。それを受ける慟哭のような主題も、やや強めに打鍵する程度で、強弱のコントラストを殊更つけはしない。譜面上はピアノとフォルテで次々に呼応しあうのだが、まるでピアニシモとメゾフォルテの交替で、スフォルツァンドですら、およそ弱音の中に生起し、音はホールのしじまにたなびく。

 曲間の拍手を求めず、続けて弾きはじめたピアノソナタK.540の第1楽章は、アダージョとは対称的に軽やかで明るい。第2楽章のアダージョは、祈りのような天上的緩慢さが説得力を増す。第3楽章はアレグレットの優美なロンドだが、軽くアゴーギクを効かせてつむじ風を舞わす。2曲とも、フォルテピアノを弾いた経験を呼び覚ますような演奏で、紡がれる音が、逆に沈黙を描き出していた。

 休憩をはさみ、メインディッシュの『ゴルトベルク変奏曲』へと進む。装飾音は即興的だがあざとさのないあっさりとしたものだった。一方でアゴーギクはかなり自由なのだが、不思議と飄々としている。第9変奏や第13変奏といった技巧的変奏では、燦めく砂が流れ落ちるよう。前後半の折り返し地点となる第16変奏のフランス風序曲も、音の伽藍を打ちたてず、もっとインティメートな雰囲気のなか、曲をリスタートさせる。

 ここからの後半が特に見事で、技巧的難度を感じさせぬ第20変奏で聴き手の耳を奪い、孤独な精神のモノローグたる第25変奏で深淵に迫る。ここから最後の第30変奏に向けたクライマックスで、緊張感を漂わせつつも、あくまで軽やかさを喪わない。

 こうして対位法の重層的で稠密なテクスチュアが、様々な遊びを加えながらほどけてゆく。そして次第に『ゴルトベルク』全曲の偉容が姿を現す。まるで一筆で描かれた、しかしその濃い淡いに限りない色彩と刹那の美を定着させた、一幅の水墨画のようだ。

 そして演奏が終わった。微動だにしない奏者と、固唾を飲んだ聴衆が長い沈黙を共有したあと、ようやくピアノの前に立ち上がったゼルキンに、最初は静かに、やがて大きな拍手が湧いた。

 完結したミクロコスモスの全体像を十二分に描出した演奏会ゆえ、アンコールはない。都合5度目となる同曲録音も用意されている、というゼルキンの探求は、『ゴルトベルク』という金字塔の周りを、いつまでも、いつまでも旋回しつづけることだろう。Text:川田朔也 / Photo:K.Miura


◎公演情報
【グレイト・ピアニスト・シリーズ2017/2018
《ゴルトベルク変奏曲》2017 ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル】
2017年8月1日(火)
すみだトリフォニーホール

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