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「ぼくらのラジオのつくりかた」予習編 伊藤銀次×高野寛 スペシャル対談
11月13日に開催するビルボード・ジャパン・カンファレンスvol.02のテーマは「ぼくらのラジオのつくりかた」。
ライブゲストである伊藤銀次は、“リスナー”として、“出演者”として、どうやってラジオと付き合ってきたのか、イベントの予習と称してスペシャル対談を行いました。対談相手は、今年10月にデビュー25周年を迎えた高野寛。佐野元春やトッド・ラングレンなどお馴染みの名前が飛び交う、貴重な対談の模様をお伝えします。
「やっぱり、ラジオが入口だったんだね。」~伊藤銀次
高野寛:音楽にはまっていった中学生の時、僕は静岡の田舎に住んでたので、ラジオが重要な情報源でしたね。中1の時は、NHKの地元のリクエスト番組みたいなのを聴いてましたね。「レット・イット・ビー」とか、「ヘイ・ジュード」とかが、音楽との出逢いの最初です。そのあとは、ヒット・チャートを聴くようになって、中2の時に「ライブ・フロム・ザ・ボトムライン」という番組で、YMOのツアーを聴いてエア・チェックしたテープは、すごい宝物です。
伊藤銀次:エア・チェックっていうのが、昔はあったよね。
高野寛:そうですね。ラベル作ってね。
伊藤銀次:だって、そんなにレコードとか買えなかったから。ラジオの番組表みて、何時にあるってわかったら用意して録って。
高野寛:あとは『サウンド・ストリート』と『クロス・オーバー・11』
伊藤銀次:聴いてるもの同じだ。笑。僕も『クロス・オーバー・11』は、エア・チェックしてた。ちょうど、フュージョンとかが出たばかりでね。どんな音楽が良いか分からない時は、まずあれでエア・チェックしてね。
高野寛:そうですね。
伊藤銀次:やっぱり、ラジオが入口だったんだね。
高野寛:だって、なかなか高校生くらいになってもレコードって、そんなにたくさん買えなかったから。エア・チェックは重要でしたね。
伊藤銀次:僕は、ビートルズの直撃エイジではあるんだけど、親の「ロカビリーは不良だ」って言葉を聞いて近づかなかったので。でもニュースでみんながビートルズにキャーキャー言ってるのを見てびっくりして、とりあえずラジオをつけたのが始まりかな。ほんとはビートルズだけ聞きたかったんだけど、映画音楽とか、カンツォーネだとか、シャンソンとか、ジャズ、ロック、カントリーとかがラジオでかかってて、そこからラジオに釘づけになったね。
高野寛:FENですか?
伊藤銀次:いや、僕はその時は大阪に住んでたから、ラジオ関西だね。
高野寛:今でいうインターネットくらいの感覚がありましたよね。夜中にじっと耳を澄ませて、チューニングをあわせていると、そこが新しい世界の入口みたいな感覚。
伊藤銀次:そう。やっぱりラジオっていうのは想像力をくすぐるっていうか、直接パーソナリティの人が語りかけてくるわけでしょ。いつも聴いてると、常連のリスナーのハガキが読まれてたり。facebookと同じような、音楽を通して繋がり合ってるっていう感じがあったよね。
高野寛:洋楽を聴くことができるメディアってラジオしかなかったですからね。テレビでは洋楽はめったに流れないですから。
伊藤銀次:何時にチューンを合わせても、洋楽番組は、いっぱいやってたな。イソノテルオさんとか、小島正雄さんとか、あとは、亀渕さんとか。そういう人たちが僕のポップスへのナビゲーターだったね。すごく分かってる大人たちが、優しく子供たちに説いてくれるようなね。そういう感じだったね。
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- 「音楽は、マニアックに語るより、聴き手の前に置くだけで良いと思う。」~伊藤銀次
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