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黒柳徹子 スペシャルインタビュー

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 坂本九の「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」として米ビルボードHot100で1位を獲得した1963年から、今年でちょうど50年。

 60年代から今日まで、NHK『夢であいましょう』、TBS『ザ・ベストテン』、そして、テレビ朝日『徹子の部屋』など、数々の名番組の司会者として日本の音楽やアーティストを見届けてきた黒柳徹子さんにスペシャルインタビューを敢行。「上を向いて歩こう」を初めて聴いた時のことや、1963年当時の「全米ビルボード1位」についての反応、海外での「SUKIYAKI」体験など、たくさんの貴重なエピソードを語っていただきました。

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みんなが口ずさめるメロディーが誕生して、音楽が私たちに近づいた

――1963年当時の日本人にとって、“音楽”とは日常の中でどのような存在だったのでしょうか。

黒柳:ちょうど音楽が身近なものになりだした頃だと思います。それまで歌謡曲というのは、歌の上手い人のための“特別なもの”でしたが、1961年に『夢であいましょう』の放送が始まって、「おさななじみ」「スーダラ節」「こんにちは赤ちゃん」など、今でもみんなが口ずさめるメロディーが誕生して、音楽がぐっと私たちの日常に近づいたと思います。実は、その少し前、昭和33年(1958年)に最年少でNHK紅白歌合戦の司会をしたんですね。その時の出演者には、赤坂小梅さんなど丸髷を結った方もいらっしゃったんです。それからたった数年の間にがらりと変わって、いずみたくさんや中村八大さんの音楽などが出てきて、私たちでも口ずさめる身近な歌がたくさん生まれるようになりました。

――現在は、さまざまな手段で音楽を聴くことが出来ますが、当時の人々と音楽との接点は、ラジオとテレビになりますよね。

黒柳:もちろんそうです。テレビは今から60年前、ラジオ全盛期だった頃に、たった866台で始まったんです。だから1台につき5人ずつ観ていたとしても、日本中で5,000人が観ているかどうか、そんな状態でNHKの放送がスタートしたわけです。最初は本当に映像が悪くてね。私が初めてテレビ番組に出演した日、それを喫茶店で観ていた母親が「あなた、どうしてキツネのお面なんて被ってテレビに出たの?」って言ったの。もちろん被ってなんかいないんですよ。でも、顔が真っ白、髪は真っ黒、口も目も横に裂けたような線が入ってしまって…確かにキツネのように見えたんだと思います(笑)。そんなところから始まっていますから、しばらくはラジオが主流でしたね。

撮り直しができないからこそ「やらなきゃ!」という情熱があった

――その頃、黒柳さんはNHK『夢であいましょう』『魔法のじゅうたん』などにレギュラー出演されていましたね。その頃の忘れられないエピソードなどはありますか。

黒柳:『魔法のじゅうたん』は子供向けの番組で、「アブラカダブラ!」と呪文を唱えると、私と子供たちが乗っている絨毯がふわりと浮かび上がって、空の上から自分の学校や町を見下ろすっていう設定でね。今だから言えますが、スタジオでアラビア風の格好をしてシーソーの片方に乗って、それをゆらゆらと揺らしながら、子供たちと下を見て手を振っている映像を撮るんです。うしろは雲のモノクロのスクリーン。白黒ですよ。その映像にヘリコプターの空撮映像をうまく挟み込んで、校庭を見せて、空を飛んでいるような映像を作っていたんです。

 今でも「黒柳さん、実は僕、小学生の時に魔法の絨毯に乗せてもらいましたよ!」という方にお会いすることがあってびっくりしてしまうのですが、実際、すごく人気番組だったんです。局内でも子供番組ながら“NHKで3番目にいい番組だ”って言われていたんですけど、オリンピック放送のためにヘリコプターがたくさん必要だということになり、3年で終わってしまったんです。それがなければ、もう少し続いたのではないかと思いますけどね(笑)。

 それから、『若い季節』や『夢であいましょう』は生放送でしたから、1時間分の台詞を覚えて、それを生でやるっていうのは出演者やスタッフ、みんなで力を合わせないと無理ですよね。だから本当にみんな仲良しでしたね。『若い季節』には、エノケンさん(榎本謙一)から渥美清さん、九ちゃん(坂本九)、そしてクレイジーキャッツまで、色んな世代の方が出演していて、本当に賑やかで毎日がお祭りみたいでしたよ。当日まで台本が出来上がらず、現場に行ってから一気に覚えて、割り勘でご飯食べて(笑)、それから本番。若かったと思いますね。でも、撮り直しが出来ないからこそ「やらなきゃ!」という情熱がありましたね。

――では、1961年に『夢であいましょう』の「今月の歌」として、初めて「上を向いて歩こう」を聴いた時の印象を教えてください。

黒柳:演出の末盛(憲彦)さんが、すごくいい曲だと惚れ込んでいたんです。それで、“大きな手”のセットをたてに並べて、その前で九ちゃんが歌ったのを覚えています。歌はもちろんですが、九ちゃんは口笛もすごく上手で、初めて聴いた時から本当にいい曲だなと感じました。「今月の歌」は、どれも良い曲ばかりでしたが、そのなかでもダントツでしたね。

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