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ブライアン・ジャクソン初来日記念特集 ~ギル・スコット・ヘロンのファンキーな知性に音楽を纏わせたブラック・ニューヨーカー

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 ギル・スコット・ヘロンとともに後世に引き継がれる名盤の数々を生みだしてきたマルチプレイヤー、ブライアン・ジャクソンによるトリビュート・ステージが2019年9月にビルボードライブ東京&大阪で開催決定。1970年代~80年代にかけてギル・スコット・ヘロン&ブライアン・ジャクソン名義で10作以上のアルバムをリリースし、コモンやケンドリック・ラマーなど数多くのアーティストにサンプリングされ、現代に至るまで音楽シーンに多大な影響を与えてきたレジェンドの軌跡を追ってみたい。

 米国社会が抱える矛盾を、路上のメンタリティに寄り添う言葉で語りかけてきたストリートの詩人こと“Godfather Of Rap”=ギル・スコット・ヘロン。1993年に来日し、多くの人の記憶に深く刻まれたライブを展開した彼は、残念ながら2011年に62歳で夜空に旅立っていった。斬新なレトリックと鋭く切れ込んでくる言葉に宿るしなやかな肉体性とファンキーな知性――それに具体的な「スタイル」を与え、コンテンポラリーな都市型ブラック・ミュージックをクリエイトしたのが、70年代からコンポーザー/プレイヤー/アレンジャーとしてギルと活動を共にしてきたブライアン・ジャクソンだ。

 クラシックの知識と素養を持ちながらジャズに深く傾倒し、洗練されたセンスでピアノやフルートを操るブライアンは、曲作りはもちろん、時代の空気を反映したサウンド・クリエイションでギルのポエトリー・ワールドを力強く後押しし、音楽的なレベルを格段に高めていった。それは、例えばギル単独名義の『Pieces Of A Man』(71年)や『The Revolution Will Not Be Televised』『Winter In America』(共に74年)といった初期の名作だけでなく、矢継ぎ早にリリースされていった共同名義(&ミッドナイト・バンド)の『From South Africa To South Carolina』(75年)や『It’s Your World』(76年)といった問題作も含めて。80年の『1980』まで続いた2人のコラボレイションは数々の名曲を生み、今ではジャズ・ファンクの「完成型」として認識されているだけでなく、ヒップホップの始祖としても高い評価を得ている。

 そのブライアンが待望の初来日を果たす。「The Music Of Gil Scott-Heron & Brian Jackson」と題し、9月25日(水)と26日(木)に『ビルボードライブ東京』で、28日(土)には『ビルボードライブ大阪』で演奏を披露してくれるのだ。まさに、喜びを噛みしめたくなるトピック! ここでは、来日決定の前から行ってきた彼へのインタビューを交えながら、ブライアン・ジャクソンの足跡と現在の活動を通して、彼の音楽スタンスや魅力にフォーカスしてみたい。

すべてが始まったリンカーン大学での出会い

 1952年にニューヨークのブルックリンに生まれたブライアン・ジャクソン。今も同地で活動を続けるブラック・ニューヨーカーがギル・スコット・ヘロンと出会ったのは、ペンシルヴェニア州にあるリンカーン大学。49年、シカゴで生まれたギルはテネシー州のジャクソンを経て10代半ばにニューヨークのチェルシー地区に移り住み、ビートニクスを中心とするポエトリー・リーディングに親しみながら“時代の空気”をたっぷり呼吸していた。そんな彼が始めた詩作とパフォーマンスに興味を抱いたブライアンは、ギルの詩に楽曲を付けるだけでなく、演奏も買って出るように。コンビのスタートだ。ブライアンとのコラボレイションによって詩作と歌に専念できるようになったギルは、それまで以上に言葉とレトリックをブラッシュ・アップさせ、ラディカルなテーマに鋭く切れ込んでいく“刃先”を研ぎ澄ませていく。また、同時期に『インパルス』でジョン・コルトレインなどの作品を手掛けていたボブ・シールが立ち上げた『フライング・ダッチマン』から『Small Talk At 125th And Lenox』(70年)でデビューしていたギルは、次の作品で実力派ジャズ・ミュージシャンを起用し、リスナーの身体に無理なく染み込んでいくグルーヴィなポエトリー・リーディングの制作に入っていく。それが冒頭に挙げた『Pieces Of A Man』だ。




 バーナード・パーディ(dr)、ロン・カーター(b)、ヒューバート・ロウズ(fl,sax)といった辣腕にブライアン(comp,p)も加わり、インタビューでも「(自分にとって)初めての大きなセッションで、とても刺激的で創造的だった」と回想しているレコーディングによって、「The Revolution Will Not Be Televised」「Save The Children」「Lady Day And John Coltrane」「Who You Are Who You Are」といった名曲・名演が記録された。

 残念ながらセールスは沈黙に近かったが、ストリート発の黒人文化の表現の1つとして高く評価された同アルバム。セッション後に「ギルは偉大な歌手ではなかったけど、彼の声はシェイクスピアのようで、ダイナミックな説得力があった」とロンが語っているように、ギルは“サブ・カルチャーのカリスマ”として存在感を高めていく。その評価と歩を合わせるように、コンポーザー/プレイヤーとしてのブライアンにもスポットが当たり始め、新興レーベルの『アリスタ』に移籍したギルは、作品の名義を「Gil Scott-Heron And Brian Jackson」に改め、コラボレイションをより本格化させていく。さらには、演奏の緊密性を高めていくため、76年に編成した「ミッドナイト・バンド」を核とする音作りを推し進め、当時のニューヨークの空気を音象化したような、しなやかで心地好いテンションを伴ったナンバーを次々にドロップしていった。





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