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高野寛『A-UN』インタビュー
いろんな意味でのアニバーサリーイヤーにしていきたい
宮沢和史とのGANGA ZUMBAインタビュー以来約10年ぶり、30周年直前に氏が体験してきた音楽史と新作『A-UN』について語ってもらいました。高橋幸宏プロデュースでデビュー、トッド・ラングレンのプロデュースでヒット、フリッパーズギターとORIGINAL LOVEとの出逢い、宮沢和史と世界中を駆け巡ったGANGA ZUMBAの功績、忌野清志郎の影響……等々、そんな音楽人生を高野寛が歩んでこれた背景について迫っています。ぜひご覧ください!
YMOやティン・パン・アレーが作った道の上を歩んでいる感覚
--今年10月でいよいよデビュー30周年を迎える訳ですが、自身ではここまでどんな音楽人生を歩んできたなと感じていますか?
高野寛:虹の都へ(Niji no miyako e : 13.12.07 Kyoto Flowing KARASUMA)
--その頃掲げた「理想のミュージシャン像」というのは、具体的に言うとどんなものだったんでしょう?
高野寛:例えば、最初の頃は弾き語りをするにしても集中力が2曲ぐらいしか続かないというか、間がもたなくて。で、ワンステージできるようになったのが90年代の終わり頃からかな? あとは、「描いたイメージをどれだけ演奏とか歌に表せるか?」というところで、思い通りにいかないもどかしさがずっと付き纏っていたんです。でも2000年代に入ってからサウンドプロデュースの仕事だったり、ギタリストの仕事をするようになって、そこで音楽的な基礎体力がグッとついてきて、それが良い感じに自分のソロワークにもフィードバックできるようになってきた。あと、ライブに対する恐怖心が無くなりましたね。--なるほど。
高野寛:それはGANGA ZUMBA(※宮沢和史を中心とした多国籍バンド。日伯交流100周年のタイミングで10,000人規模のフリーコンサートを成功させたり『紅白歌合戦』に出演したりと音楽で幾つもの偉業を成し遂げた)も含めた宮沢くんとの海外での経験が相当モノを言ってる感じですね。--あのプロジェクトでは、宮沢和史や高野寛というアーティストのことを全く知らない人たちの前でライブしまくっていた訳じゃないですか。純然たる音楽の力だけで異国の地で勝負する。
高野寛:その経験はすごく大きかったですね。日本はスタッフが優秀なんですよ。だから日本でツアーするときは本当に手厚いサポートを受けながらやっているんですよね。もちろんファンもいっぱいいるし。だけど、海外では曲も知られていないですし、自分たちで楽器まわりのことをある程度やらなきゃいけなかったり、レンタル機材が壊れているなんてことも日常茶飯事なので、それをどうやって乗り越えるか、そこでいかに慌てないか、ということの連続で。だから「ライブというのはハプニングの連続なんだ」という気持ちで対処できるようになったし、その経験があるから今はツアーで何があってもちょっとやそっとじゃ動揺しなくなりましたね。--あと、冒頭で触れていた「トッド・ラングレンのプロデュースでヒット」という話。当時を知らない人からすると「なんでそんなことが起きたんだろう?」と不思議がると思うんですけど、どういった経緯で実現したものなんですか?
高野寛:僕は一方的にトッド・ラングレンのファンで、1stアルバムのSpecial Thanksのところにトッド・ラングレンの名前を入れていたぐらい影響を受けていたんですね。その直後にトッドのマネージメントから日本のレコード会社に連絡があって「日本のアーティストに興味があるからプロデュースがしてみたい」と。それで「トッド・ラングレンに興味ある人は音源を送ってくれ」という話だったんですけど、ディレクターから「高野くん、送ってみる?」と言われて「もちろんです!」と送ったら、わりとすぐに返事があってプロデュースしてもらうことになったんです。ちなみに、トッドは元々日本びいきなんですよ。家に遊びに行ったら着物が飾ってあるような親日家。で、レコードコレクションもちょっと見せてもらったんだけど、戸川純とかゲルニカとか四人囃子とか……--めちゃくちゃディープ!
高野寛:そういうアーティストのレコードを日本に来る度に買って聴いている、当時としてはかなりコアな日本ファンだったんですよ。だから日本のアーティストに純粋に興味があった。あと、当時は円高で経済的な理由も少なからずあったと思うんです。ただ、そのトッドがいろんなアーティストの音源を聴いた中でチョイスしたのは、僕とレピッシュだけだったというのがトッド・ラングレンらしいし、僕もレピッシュも、トッドがプロデュースしたアルバムがキャリアの中でいちばん売れたアルバムなんですよ。そのマジックというのはトッド・ラングレンならでは。だって、日本ではコアな音楽ファン以外はトッド・ラングレンの名前を知っている人は多くはなかったから、「トッド・ラングレンプロデュース」というキャッチコピーに大きな宣伝効果はなかったはずなんです。それでもヒットしたのは、純粋にトッドの音が説得力を持っていたんだろうなと思う。--そのトッド・ラングレンに限らず、高橋幸宏さんや田島貴男さん、宮沢和史さんをはじめ、高野さんのバイオグラフィーは「出逢いに恵まれて」と仰られていた通り、本当に素晴らしいミュージシャンとの出逢いだらけなんですよね。なんでこんなにも次々と巡り会えたんですかね?
高野寛:うーん……分かりません(笑)。デビューするまでは「自分は運が良い」と思ったことはほとんどないぐらいネガティブ思考だったし、幸宏さんに出逢うまではオーディションも落ちまくっていたので「自分には才能はないんだろうなぁ」と思っていたんですけど……「YMOチルドレン」という言葉があるけれども、YMOは日本の音楽シーンの中で際立った特別な流れを作っているんですよね。やっぱりYMOに影響されてクリエイターになった人たちがミュージシャンに限らず同世代には物凄くたくさんいて、そういう人たちがずっと作っている、今だと「サブカル」と言われちゃうようなところがあるけれども、そういうシーンに自分が飛び込んでいけたので、その流れの中で、YMOやティン・パン・アレーが作った道の上を歩んでいる感覚があって、その中でのいろんな人との出逢いがあってね。とは言え、偶然もすごく大きいです。「なんでそのタイミングでトッド・ラングレンが日本にオファーをくれたのか」とか。僕がデビューする半年ぐらい前に、渋谷のライブハウスでたまたま観ていたイベントにフリッパーズギターとORIGINAL LOVEが出ていて、そこでみんなと知り合いになったりとかね。まだ「渋谷系」という言葉のカケラもない時代で、みんなデビュー前で。今思うとそういう歴史の偶然みたいなモノが幾つかあったんですよね。- 前代未聞のプロジェクト・GANGA ZUMBA「時間が経ってから再評価される可能性」
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