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マイルス Electric Band ~来日記念対談 小川隆夫×柳樂光隆

 『ビッチェズ・ブリュー』から『TUTU』まで、エレクトリック・マイルスのレパートリーを“モダン・ジャズ革命”のフレームワークとして再訪する、唯一無二のプロジェクト=マイルス Electric Bandの来日公演がいよいよ来月4月に開催される。マイルスの甥であり、かつてマイルス・バンドの一員としても重要な役割を果たしたヴィンス・ウィルバーンJr.がプロデューサーとなり、かつてのマイルスに由縁のミュージシャンが揃った同公演を前に、特別対談を実施。“日本人で最もマイルスに取材したライター”として知られる小川隆夫氏、そして昨年発売された『MILES:Reimagined 2010年代のマイルス・デイヴィス・ガイド』の監修者でもある柳樂光隆氏の2名に、今回の公演の見所、そして“エレクトリック期のマイルス・デイビス”について幅広く語って貰った。マイルスの独特の人間性もうかがえる貴重な対談となった。

80年代と“マイルス・ミュージック”

柳樂:小川さんは今回のメンバーに面識はあるんですか?


▲『ESP』

小川:僕は昔、<グラスハウス>というレーベルのプロデューサーをやっていて、ロバート・アーヴィングとダリル・ジョーンズが、一時期マイルスのバンドにいたギターのボビー・ブルームと、あとはドラムのトビー・ウィリアムスとでシカゴでやってたESPというバンドの作品をプロデュースしたことがあるの。バンド名はマイルスの『E.S.P』(1965年)から取ってるんだけど。91年か92年のことで、ロバート・アーヴィングとは、それっきりだけどね(笑)。

柳樂:そうなんですね。

小川:ダリルはローリング・ストーンズに入る前で、スティングとやったちょっと後。かわいいやつでさ(笑)。その頃、30くらいになっていたのに、まだ親と一緒に実家に住んでいて、それを皆にからかわれて。スタジオが安く借りられて、そのときは一ヶ月くらいレコーディングでシカゴ行ったんだけど、 ロバート・アーヴィングが後半の1週間、ツアーで日本に行っちゃって。ひどいでしょ(笑)。仕方ないからオーバー・ダブとかしてたけど、やることがなくなって1日オフにしたんだよね。そしたらダリルが「どうせタカオは一人だろ」って、車でシカゴを案内してくれたの。『ブルース・ブラザーズ』のロケ地になったレストランとか、インド料理屋さんに連れていってくれて。本当にかわいい くていいやつ(笑)。

小川:あと、ヴィンス・ウィルバーン・Jr.はマイルスのバンドにいた時から少しは知ってたね。ブラックバード・マックナイトとか、DJロジックとかは会ったことはあるけど、よくは知らない。アントワン・ルーニーもそこまで親しくないかな。ウォレスとは仲良いんだけど。

柳樂:(アントワンは)ウォレスと兄弟ですよね。

小川:そう。ウォレスがちょうどNYに出てきた時に、僕もNYに留学してて。二人ともNYを知らない田舎っぺみたいな感じで仲良くなったんだよね。81年から83年まで留学してたんだけど、その時に住んでた隣のビルに、たまたまアート・ブレイキーとか、ウィントンとブランフォードのマルサリス兄弟が住んでいて。特にウィントンの所には、ウォレスとかケニー・ギャレットとか、若い連中がいつも集まっていて、僕もそれで知り合いになったの。ジェフ・テイン・ワッツとか、スミッティ・スミスとかもよく来てたよ。

柳樂:本当にあの周りのミュージシャンが集まってたんですね。

小川:偶然そういう環境にいて。みんな20歳とかそこらなのに、僕だけ30近くで年寄りみたいなもんだったけど。ウォレスとかは、もうスターになりつつあったけど、他の連中はまだまだこれからっていうタイミングで、みんなで集まってセッションしたり色んな話をしていて。彼らは黒人の坊っちゃんで、すごく真面目なの。みんなキチッとした家の出なんだよね。音楽もジャズを真面目に考えちゃって、「黒人音楽の伝統を俺らが引き継がなきゃいけない」みたいなことを言っちゃう。


▲The Jazz Life featuring Art Blakey at Seventh Avenue South(1981)


柳樂:あの辺の人たちは割とそういうモードですよね。

小川:内心「だから、つまんないんじゃないの?」って思ってたけど、語学力も無いから言わなかった(笑)。だけど、80年代の前半って、ウィントンを筆頭に若い連中がストレート・アヘッドなジャズをやるのがムーブメントになったからね。仕事にもなっちゃうし、皆「自分たちはこれで良いんだ!」って思うじゃない。マイルスがやってた音楽とは対極にいるわけだよね。でも、マイルスを崇める若い連中も当然いて、彼らも段々上がってくる。そうすると両方が拮抗して、お互いに行ったり来たりして、80年代いの中ごろ以降、ぐしゃぐしゃになるんだよね。それが80年代後半のNYのジャズ・シーン。そこからまた面白くなってきたと思うんだ。

 その頃になると、クラブ・ミュージックとかヒップホップも出てきて、ジャズだとか、ポップスだとか、ロックだとか、ジャンルもあんまり関係なくなっちゃう。ミュージシャンの側も何でもやるしね。だからジャンルで括らない方が、逆に分かりやすいんじゃないかなっていう気がする。「誰々の音楽」みたいな。

柳樂:まさにマイルスがそうでしたもんね。

小川:マイルスは「俺の音楽をジャズと呼ぶな、“マイルス・ミュージック”と呼べ」と言った人だもんね。もちろん、ジャズというジャンルは歴然とあって、そういう括りを作らないとセールスはなかなか難しい。そういう中で、マイルスのバンドにいた人とか、マイルスの音楽に影響を受けた人が、昔の意味じゃなく、もっと大きな意味での「ジャズ」の中で活躍する場が出来たのが、80年代の後半以降だと思う。

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